伝記
プブリウス・コルネリウス・スキピオは、第二次ポエニ戦争初期の共和政ローマの軍人であり政治家である。紀元前211年に没した。生年ははっきりせず、紀元前255年ごろとする説がある。コルネリウス氏族の出で、父は執政官経験者のルキウス・コルネリウス・スキピオ、兄は後にヒスパニアで行動をともにするグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスである。妻はポンポニアといい、息子に後にハンニバルを破るスキピオ・アフリカヌスと、スキピオ・アシアティクスがいる。
紀元前218年、第二次ポエニ戦争が始まった最初の年に、ティベリウス・センプロニウス・ロングスとともに執政官に当選した。担当属州はヒスパニアで、軍勢を率いてピサから海路でマッシリアへ向かった。しかし到着してみると、ハンニバルはすでにピレネーを越えてローヌ川へ進んでいた。兵が船酔いで消耗していたため、スキピオは数日の休養を与え、ハンニバルを阻む時間はまだあると考えたという。ところがカルタゴ軍の動きは予想より速く、ハンニバルは無事にローヌ川を渡り、ローマ軍が河口にいるうちに内陸へ進んでいた。追撃をあきらめたスキピオは海路でイタリアに戻り、ガリア・キサルピナで敵を待つことにした。
そのガリア・キサルピナにはすでに二人の法務官が率いる二万五千のローマ軍がいた。そこでスキピオは、自分が連れてきた軍の大部分を兄カルウスに預けてヒスパニアへ送り、手元には少数の兵だけを残した。この判断は、カルタゴがヒスパニアを自由に使えなくする点でローマを救ったともいわれる。ピサに上陸したスキピオは法務官の軍を引き継ぎ、ハンニバルが北イタリアのガリア人から援軍を集める前に会おうと急いだ。ポー川を渡り、テシノ川に橋を架けて進んだ先で、自ら率いる騎兵と軽装歩兵がハンニバル自身の指揮する騎兵と衝突した。これがテシノ川の戦いで、ローマ側は敗れ、スキピオ自身も重傷を負った。命を救ったのは若い息子プブリウスの勇気だとも、リグリア人の奴隷だともいわれる。
スキピオは橋を落として退き、ピアチェンツァに逃げ込んだ。ハンニバルは戦いを挑んだが、傷のために指揮が執れず、また同僚ロングスの到着を待つ考えでもあったので、これを受けなかった。ロングスが着いたとき、スキピオはトレビア川のほとりに陣を置いていた。傷が癒えない彼に代わって指揮はロングスに移った。ロングスは名声を求め、スキピオの忠告に反して会戦に踏み切った。慎重に戦うよう勧めていたスキピオの助言は容れられず、紀元前218年12月のトレビア川の戦いでローマ軍は大敗し、ピアチェンツァの城壁の内へ退いた。
敗北が続いても、スキピオはローマ軍の力を信じていたとされる。翌紀元前217年には前執政官として、二十隻の艦隊と歩兵八千を率いてヒスパニアへ渡った。そこでは兄カルウスがすでに足場を固めていた。前年にエンポリオンに上陸した兄は、カルタゴの司令官たちの厳しさとは対照的な穏やかさと親切さで、地中海沿岸の多くの首長を味方につけていたという。二人はその後ヒスパニアで戦い続けたが、その作戦の実態は不明な点が多く、多くの出来事の年代も確定できない。紀元前211年、スキピオはカルタゴ・ノヴァ近郊で、ハスドルバル・ギスコ率いるイベリア人の部隊に敗れた。兄カルウスとともに12月に戦死したとされ、この戦いはバエティス川の戦いと呼ばれる。その後、息子のスキピオ・アフリカヌスが第二次ポエニ戦争の後期に活躍することになる。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス (紀元前211年没)
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官) (紀元前211年没)
- Xerxes of Armenia (紀元前211)
同じ地域に関係する人物
- フアン・ゴメス・ゴンサレス (1992年没)
- アロンソ・ベルゲーテ (1561年没)
- フアン・デ・マリアナ (1624年没)
- アギラ2世 (710年代没)
- フアン・アントニオ・ビジャカーニャス (2001年没)