HISTORICAL PERSON · 750年没

マルワーン2世

ウマイヤ朝のカリフ。アルメニア総督としてハザール人と戦い、744年にダマスカスに入ってカリフとなった。各地の反乱を鎮めたが、750年のザーブ川の戦いでアッバース家に敗れ、エジプトで殺された。

生涯
750年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ギーザ県 / アブシール)
出生地
正統カリフ時代(ビラード・アル=シャーム)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ギーザ県)

伝記

マルワーン2世は、ウマイヤ朝の第14代にして最後のカリフ(在位744年〜750年)である。691年ごろに生まれ、750年8月に没した。第4代カリフ・マルワーン1世の孫にあたり、父はムハンマド・イブン・マルワーンである。母は非アラブ系、多くの伝えではクルド系の女性とされる。

即位前は十数年にわたってアルメニアとアゼルバイジャンの総督を務めた。カリフ・ヒシャームの時代には、ヒシャームの兄弟でアルメニア総督のマスラマの下でハザール人と戦い、軍功を挙げた。732年に自らアルメニア総督となったのちは、ハザールの勢力圏に攻め込んでその首長をイスラームに改宗させ、アルメニア各地の首長にも臣従と貢納を約束させた。ただしハザールとの最初の戦いは失敗に終わって一度は解任され、後任の総督が失明したため復帰したとも伝えられる。736年にはグルジアに侵入し、アラン人の城塞三つを奪って和を結んでいる。

744年、ヤズィード3世がワリード2世を殺してカリフとなると、マルワーンはその企てを非難する書簡を親族に送っていた。のちにワリード2世の遺児を擁立しようとシリアへ進軍し、ヤズィード3世の弟イブラーヒームが送った大軍を破ってダマスカスに入った。だがワリード2世の子はすでに殺されており、都は無政府状態にあった。人々は事態の収拾を期待してマルワーンを喜んで迎え、60歳近い彼がカリフに即位した。カイス族の支持を得た彼は、本拠をダマスカスからメソポタミアのハッランに移した。この決定はシリアの住民を失望させ、各地で反乱が起こった。同じころハワーリジュ派も蜂起し、ビザンツ軍はアナトリアの領土に侵入してマラティヤなどを破壊した。マルワーンはホムスやパレスチナの反乱を鎮め、ハワーリジュ派にもメソポタミアとヒジャーズで勝利した。ルサーファでウマイヤ家の者が起こした反乱でも3万人の反徒を殺したと伝えられ、ホムス、バールベック、ダマスカス、エルサレムなどの城壁を破壊させた。748年までにエジプト、メソポタミア、アラビア半島南部の支配を回復し、マグリブで反乱していたアブドゥッラフマーン・イブン・ハビーブも総督に任じて帰順させた。

しかし747年、東方のホラーサーンでアッバース家が指導する蜂起が始まっていた。ホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールが援軍を求めたが、反乱鎮圧に追われていたマルワーンは応じられなかった。749年に彼はアッバース家の指導者イブラーヒームを捕らえ、この人物はハッランの牢で没したが、残った一族はクーファに潜み、同年11月にアブー・アル=アッバース(サッファーフ)がカリフを称した。750年1月、マルワーンは大ザーブ川でアブドゥッラー・イブン・アリーと戦って敗れ、かろうじて戦場を離れた。敗走後、シリアの諸都市はほとんど抵抗せずアッバース軍に降り、ダマスカスでは抵抗した娘婿が市民に殺された。ホムスでは軍が略奪された。ビザンツの援助を求める案は臣下に反対され、彼はエジプトへ逃れたが、ブーシールのキリスト教寺院でアッバース軍の兵に見つかり、剣を取って戦って討たれた。首とカリフの記章はサッファーフのもとに送られたという。

渾名は「ロバ」を意味するアル=ヒマールで、忍耐強さや、シャクヤクを「ロバのバラ」と呼んで好んだことなど由来には諸説ある。禁欲的で、軍中では兵と同じ暮らしをし、古代史に関心が深く、周囲に歴史を講じることもあったという。また、戦いの陣形を、預言者ムハンマドの方式として神聖視された横列のスフーフから、機動力を重んじる小部隊のカラーディスへと改めた人物とされる。

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