伝記
キルデリク3世(714年頃、717年頃、あるいは728年頃の生まれとされ、754年頃没)は、メロヴィング朝最後のフランク王である。在位は743年から751年まで。フランス語ではシルデリクとも呼ばれる。751年にピピン3世に廃位され、これによってメロヴィング朝は断絶し、ピピンの即位がカロリング朝の始まりとなった。
メロヴィング朝の王権は、ダゴベルト1世の治世(629年 - 634年)の後、しだいに儀礼的な存在へと衰え、実権は宮宰が握るようになった。718年にカール・マルテルがネウストリアとアウストラシアの宮宰を兼ねてフランクで最も強い立場を固め、737年に王テウデリク4世が没した後は、王位に誰も座らせずに統治した。741年にカールが没すると、先妻ロトルードとの間の子であるカールマンとピピン3世が共同の宮宰となった。だが、すぐに異母弟グリフォと義弟のバイエルン公オディロの反乱に直面した。6年間空いていた王座にメロヴィング家の王を据えたのは、こうした反乱の中で自分たちの支配に正統性を与えるためだったかもしれない。
キルデリクの父については、キルペリク2世の子とする説が通説である。かつてはテウデリク4世の子とみなす見方が強かった。しかしテウデリク4世は711年または712年の生まれと考えられ、年齢差が3歳から6歳しかないため、父子とするには疑問が大きい。メロヴィング王家の一族であることは確かだが、血統は不詳とする説もある。ただ、639年以降のメロヴィング朝の王には、系譜をはっきりたどれない者が他にもいた。一方、フォントネル修道院の年代記が引く文書には「キルデリクの父テウデリク王の第11年」とあり、サン=ドニ修道院の王の一覧にも、テウデリクがキルデリクをもうけ、キルデリクはサン=ベルタン修道院に入れられたと注記がある。
743年の2月16日から3月2日の間に、キルデリクは宮宰カールマンとピピン3世の兄弟によって王位につけられた。このとき15歳から25歳ほどだったと考えられている。3月2日にはコンピエーニュでル・マン司教に対し特権を認める文書を出している。この年は「執政官カールマンとピピンを伴うキルデリク王の第1年」と記され、744年7月の文書で王はカールマンを、自分を王座に就けた宮廷の支配者と呼んでいる。王の名で出された文書は、二人の宮宰をほとんど共同統治者のように扱っていた。しかし実権は宮宰、とりわけピピン3世に握られていた。アインハルトの『カール大帝伝』によれば、王は公務にほとんど関わらず、年に一度、農夫が引く牛車で運ばれて玉座に座り、宮宰の用意した答えを使節に述べるだけだった。長い髪とひげをのばし、王の名だけに満足してそれらしく振る舞い、わずかな生活費に頼っていたという。
751年、ピピンはサン=ドニ修道院長フルラドを教皇ザカリアスのもとに送り、「権力のない者を王としておくより、権力のある者を王とした方がよい」との回答を得た。これに基づいて同年11月、ピピンはフランク貴族に王に選ばれ、司教ボニファティウスから塗油を受けて王位についた。キルデリクは廃位され、髪を切られてサン=ベルタン修道院に幽閉された。息子のテウデリクもサン=ヴァンドリーユ修道院に幽閉され、二人とも二度と歴史の表舞台に現れなかった。妻はランのギゼラで、息子テウデリクは740年頃の生まれとされ、没年は不明である。
同じ年に亡くなった人物
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- ラーキス (750年(推定))
- ビテュニアのマリーナ (750年)
- チチャク (750年)
- イブラーヒーム (ウマイヤ朝) (750年没)
同じ地域に関係する人物
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- ポール・ニザン (1940年没)
- ギルバート・アポット・ア・ベケット (1856年没)
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