伝記
ブトロス・ブトロス=ガーリは、1922年11月14日にエジプト王国のカイロで、コプト正教会信徒の家庭に生まれた外交官であり、政治家、国際法学者である。父方の祖父ブトロス・ガーリーは、イギリス統治下のムハンマド・アリー朝期に首相を務めたが、民族主義者に暗殺された。母方の祖父には、公務員で歴史家でもあったミハイル・シャルビムがいる。名の「ブトロス」は、使徒ペトロに由来し、ピエールやピーターと同じ語源をもつ。事務総長在任中の報道では、ブトロス・ガリ、あるいは単にガリと書かれることが多かった。
1946年にカイロ大学を卒業し、1949年にパリ大学法学部で国際法の博士号を、パリ政治学院で国際関係学の免状を取得した。同じ1949年から1979年まで、カイロ大学で国際法と国際関係学の教授を務めた。1954年から1955年にはフルブライト研究員としてコロンビア大学に留学し、1963年から1964年にはハーグ国際法アカデミーの研究センター長、1967年から1968年にはパリ大学の客員教授を務めた。1975年に政治戦略学センターの代表、1980年にはアフリカ政治学会の会長となり、1986年にはウプサラ大学から名誉博士号を授与されている。
政治家としては、アンワル・サーダート大統領の時代に頭角を現し、1974年から1977年まで中央委員会の委員を務めた。1977年に外務担当の国務大臣代行となり、イスラエルとの和平合意に尽力した。サーダートの後も、ホスニー・ムバーラクのもとで1991年まで務め、1989年にはムバーラクに随行して昭和天皇の大喪の礼に参列している。1991年、ハビエル・ペレス・デ・クエヤルの任期満了にともなう国連事務総長選挙に立候補し、ジンバブエのバーナード・チゼロと競り合った。投票は5回に及び、第5回でアメリカの有力候補排除を懸念した国々の支持がブトロス=ガーリに移って、圧勝した。これによりアフリカ出身者として初の国連事務総長となり、就任時の69歳1か月は歴代最高齢である。
1992年に、国連の紛争対応策を示す『平和への課題』を提唱し、民主主義の促進、予防外交、平和維持の役割の拡大を目標に掲げた。しかし、改革の柱だった「平和強制部隊」は、ソマリア内戦への介入で予想以上の損害を出し、アメリカ軍をはじめとする部隊の多くが撤退して、構想は失敗に終わった。100万人以上が犠牲になったとされる1994年のルワンダ虐殺では、国連が行動を起こさなかったと批判された。ボスニアでは国連平和維持軍が機能せず、1995年12月に北大西洋条約機構が介入することになった。事務総長としての評価は、いまも議論の的になっている。
1996年、2期目に立候補したが、アメリカは彼の失脚を狙っていた。安保理では15票中14票を獲得したものの、アメリカが拒否権を行使した。フランスは2年の短期任期という妥協案を示したが、アメリカはこれも拒否し、ブトロス=ガーリは立候補を断念した。拒否権で2期目を阻まれた史上唯一の事務総長である。後任は、長年国連事務局に勤めたコフィー・アナンであった。
その後、1997年11月に初代のフランコフォニー国際機関の事務総長に選ばれ、2002年末まで務めた。2006年には、イスラエル元首相シモン・ペレスと共著を出版している。訪日の際には必ず東郷神社に参拝していたという。2016年2月16日、カイロの病院で93歳で亡くなり、軍葬が営まれた。
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