伝記
アテナイのカレスは、前4世紀のアテナイの将軍(ストラテゴス)である。長年アテナイを代表する指揮官の一人であり、人脈に恵まれた政治家として望む指揮権を手に入れた。ただしその指揮権を、主に自分と取り巻きの私腹を肥やすために使ったといわれる。
記録に初めて現れるのは前367年で、アルカディア人とアルゴス人、シキュオンのテバイ司令官に攻められたプリウスの救援に送られ、これを解放した。弁論家アイスキネスがこの遠征で初めて頭角を現したという。その後オロポス方面の指揮のため呼び戻されたが、彼が去った直後にシキュオン人がスパルタの守備隊から港を取り戻したことは、彼の存在の重みを示している。前361年にはレオステネスの後任の提督としてケルキュラへ向かい、寡頭派を支援した。寡頭派は権力を握ったが、多くの流血で民主派の敵意を招き、寡頭派自身との関係も保てなかったため、同盟市戦争が起こるとこの島はアテナイから失われた。前358年にはトラキアへ全権の将軍として派遣され、アテナイオドロスが結んだ条約をカリデモスに批准させた。
翌年に同盟市戦争が始まると将軍の一人に任じられ、前356年の戦役ではカブリアスの死を受け、イピクラテス、ティモテオスと共同で指揮した。ディオドロスによれば、嵐のなかでカレスは戦いたがったが同僚が拒んだため、彼が同僚の落ち度を報告し、同僚は召還されて裁判にかけられた。コルネリウス・ネポスは、カレスが嵐にもかかわらず敵を攻めて敗れ、自分を守るために同僚が支援しなかったと訴えたとする。この裁判ではアリストポンが彼を助けた。単独の指揮官となった彼は資金を要したが、アテナイに求めたがらず、部下とともに反乱中のヘレスポントス・プリュギア総督アルタバゾスに仕えた。アテナイは初め認めたものの、ペルシア王アルタクセルクセス3世の苦情で関係を断つよう命じた。王が同盟市側を支援するという脅しが、戦争の早い終結を促したとみられる。早期終結はエウブロスとイソクラテスが支持し、カレスとその一派は反対した。前353年にはセストスへ送られ、町を落として男たちを虐殺し、女子供を奴隷として売った。
前349年のオリュントス戦争では、救援に送られた傭兵の将軍に任じられたが、ほとんど成果はなかったらしい。指揮はカリデモスに移り、翌年に再びカレスが任じられた。この遠征でピリッポス王の傭兵に小さな勝利を収め、デルポイから冒涜的に奪われた金の一部を使って、アテナイ人に祝宴を催した。任務後の会計審査(エウテュナ)では、ケピソドトスから、民を締め上げた後で報告しようとしていると弾劾された。前346年、トラキアで再びアテナイ軍を率いたが、ピリッポスがケルソブレプテスに向かうころ、カレスが引き揚げて行方が分からないという苦情がケルソネソスから届き、アテナイは捜索のため艦隊を送った。私的な略奪遠征に出ていたとみられる。同じ年、カレスからはケルソブレプテスの情勢が絶望的だとする報告も届いた。
その後数年は記録がなく、テオポンポスによれば彼が好んだ住まいであるシゲイオンに暮らしていたらしい。しかし前341年のデモステネスの演説は、彼が当時アテナイの評議で大きな影響力を持っていたと述べており、トラキアでのディオペイテスのピリッポスに対する行動を認め、擁護した一人だった可能性がある。前340年には軍の指揮を任された。
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