HISTORICAL PERSON · 2016年没

コンスタンディノス・ステファノプロス

ギリシャの政治家。アテネ大学法学部を卒業して弁護士となり、新民主主義党から当選して閣僚を歴任した。1995年に大統領に選出され、2000年に再選されて2期務めた。

生涯
2016年没
死亡地
ギリシャ共和国(アッティキ / Henry Dunant Hospital Center)
出生地
ギリシャ共和国(パトラ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(アッティキ)

伝記

コンスタンディノス・ステファノプロスは、通称をコスティス・ステファノプロスといい、1926年8月15日にペロポネソス半島の都市パトラで生まれたギリシャの政治家である。父ディミトリオスは1920年に国会議員に選ばれ、いくつかの閣僚も務めた人物で、母方はパトラで古くから影響力のあるプラツィカス家の出であった。町で中等教育を受けたのち、アテネ大学の法学部を卒業し、1954年に弁護士となってパトラの弁護士会に登録した。政治家の家に育ち、故郷で弁護士を開業した。

1958年、まだ31歳で、コンスタンディノス・カラマンリス率いる保守政党の国民急進同盟から総選挙に立候補したが落選し、1961年と1963年の繰り上げ選挙でも当選できなかった。1964年2月16日の総選挙で、ついに国会に入ったが、1967年の軍事政権のクーデターで議員の任期は終わった。軍事政権が倒れると、カラマンリスの下で組織された挙国一致内閣で、商業担当の副大臣に任じられた。カラマンリスが国民急進同盟に代わって結成した中道右派の新民主主義党に加わり、中央委員会の一員となった。1974年11月17日の総選挙では、アハイア選挙区から当選し、48歳で内務大臣に就いた。政体を問う国民投票の運動では、王政の復活を唱えたが、国民は大差で共和政の維持を選んだ。

1976年に社会福祉大臣に移り、1977年11月20日の選挙で再選されると、総理府大臣として1981年まで務めた。カラマンリスが大統領に選ばれて首相をゲオルギオス・ラリスが引き継いだ後も、留任した。1981年10月18日の総選挙で、アンドレアス・パパンドレウ率いる全ギリシャ社会主義運動が勝利して政権が交代し、再選された議員のまま、3日後に閣僚の職を解かれた。その後、党首選に2度立候補したが敗れた。一度目は党議員団の投票で32票を得て、元国防大臣エヴァンゲロス・アヴェロフに次ぐ2位となり、議員団の書記、のちに報道官を務めた。1984年にアヴェロフが健康上の理由で辞任を表明すると、後任を決める議員団の投票で、外務大臣を務めたコンスタンディノス・ミツォタキスが70票、ステファノプロスは40票だった。

1985年の選挙で党が再び敗れ、ミツォタキスが信任投票で支持されると、これに反対して離党した。9人の議員を連れて、自由主義と保守を掲げる民主刷新党の結成を発表したが、1989年の欧州議会選挙などで続けて敗れ、同年6月の繰り上げ総選挙で当選したのは、党首の彼ただ一人だった。党の失敗が重なったため、1994年に政界から身を引く形となった。1994年に欧州議会選挙で敗北した後は党を解き、政界を退いた。

1995年に3回目の投票で大統領に選出され、全ギリシャ社会主義運動や、アンドニス・サマラスらの政党の支持を受けた。2000年に再選され、2期10年を務め、ギリシャの国家元首として初めて、連続する二期を務めた。2004年には国家元首として、アテネ五輪とパラリンピックの開会を宣言した。2005年に社会主義者のカロロス・パプーリアスに交代して、公職を離れた。2016年11月20日に没した。

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