伝記
レオ12世は、1823年9月28日から1829年2月10日まで在位したローマ教皇である。本名はアンニーバレ・デッラ・ジェンガで、1760年8月に生まれ、1829年2月10日に没した。外交家としての手腕は高かったが、教皇領内で専制政治を行い、民心を失った。
古い貴族の家に生まれた。ジェンガ家は、現在のアンコーナ県にあるジェンガの町を基盤とする一族である。出生地ははっきりせず、ジェンガ城、もしくはスポレートで生まれたとされる。父はイラーリオ伯、母はマリア・ルイーザで、10人の子の6番目であった。1773年から1778年までオージモの学寮で神学を学び、のちにローマで学び、1783年に聖職貴族のための教皇庁アカデミーで学び始めた。1783年6月14日に司祭に叙階された。1790年には、前年に没した神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世をしのぶ、機転の利いた演説で好意を集めた。1794年に教皇ピウス6世からティルスの名義大司教に任じられ、聖ペテロ大聖堂の参事会員にもなった。ルツェルンに教皇大使として派遣され、のちケルンの教皇使節に転じたが、戦争のため、アウクスブルクに居住した。このとき、これが最後の任地だと考え、母と自分の墓を造らせたという。
ドイツには十数年滞在し、ドレスデン、ウィーン、ミュンヘン、シュトゥットガルトの宮廷や、ナポレオンとの折衝に当たるなど、名誉ある、困難な任務を託された。一方で、この間に財政が乱れ、私生活も疑われたと非難されている。1798年のナポレオンによる教皇領の廃止の後は、モンティチェッリ修道院で数年暮らし、音楽や鳥撃ちを楽しんだ。この楽しみは教皇に選ばれた後も続けた。1814年、ピウス7世の祝辞を、復位したルイ18世に届ける役を務めた。枢機卿に叙され(1816年とも1820年とも伝わる)、シニガリア司教にも任じられたが、健康上の理由で1818年に辞し、一度も司教区に入らなかった。1820年5月9日にはローマ司教区の総代理に任じられた。
1823年にピウス7世が没すると、コンクラーヴェで、熱心派の候補となり、フランスの激しい反対にもかかわらず、9月28日に34票で選出された。最有力だったセヴェロリ枢機卿には、アルバーニ枢機卿がオーストリアの名で拒否権を出していた。死が近いと思われたことも選出を後押しした。本人も枢機卿たちに、死んだ人間を選ぶことになると言ったが、予想外に持ち直した。63歳で、病気がちだった。背が高く痩せ、禁欲的な風貌で、憂鬱な表情だったという。在位の6年足らずのあいだ病気がちだったが、苦痛によく耐えたと評された。
教皇としては、エルコレ・コンサルヴィ枢機卿を右腕として活発な外交を展開し、非カトリック諸国とも友好関係を築いた。しかし教皇領内では、住民に対する監視の制度を作り、ユダヤ人をゲットーに押し込め、財産の所有を禁じるなど、きわめて保守的な政策を実行した。税を引き上げても、教皇領の財政は貧しいままで、経済は停滞し、民心を失った。カルボナリやフリーメイソンのような秘密結社を徹底的に非難した。1829年2月10日に没すると、教皇領の住民は露骨に喜んだといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1761-1829) (1829年没)
- シカンダル・ジャー (1829年没)
- ハンフリー・デービー (1829年没)
- ペーター1世 (オルデンブルク大公) (1829年没)
- ヨゼフ・ドブロフスキー (1829年没)
同じ地域に関係する人物
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- Domenico Bartolucci (2013年没)
- テオドルス1世 (ローマ教皇) (649年没)
- Licinius Valerianus Minor (268年没)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前68年の執政官) (紀元前68年没)