伝記
ニールス・ヘンリック・アーベルは、ノルウェーの数学者である。1802年8月5日に生まれ、1829年4月6日に結核のため26歳で没した。研究に費やした期間は6、7年にすぎず、貧困のなかで業績を残した。父ゼーレン・ゲオルグは神学と哲学の学位を持つ牧師で、母アンネ・マリー・シモンセンは船主の裕福な商人の娘である。二番目の子として、フィンネイ島の牧師館に住んでいた時期に生まれたが、実際には隣の教区のネッドストランドで早産で生まれた可能性が高い。祖父の死後、一家は父が牧師に任じられたイェルスタに移った。母は社交を好み、飲酒がちで、子どもの養育にあまり関心を持たなかったらしい。ニールスと兄弟の勉強は父が見て、手書きの本で読み書きを教えた。
1814年のノルウェー独立後の最初の選挙で、父は国会議員に選ばれた。その縁でクリスチャニアの大聖堂付属学校を知り、長男ハンス・マティアスを入学させるつもりだったが、兄が家を離れるのを悲しんだため、代わりにニールスを送った。1815年、13歳で入学し、1年後に兄も加わった。成績は兄のほうが上だったが、1818年に新任の数学教師ホルムボーが宿題の数学の課題を出し、ニールスの才能を見て、上級の学習へ励まし、放課後の個人授業もした。同年、父は神学者との公開論争や、憲法制定議会の主催者アンカーを侮辱した件で政治生命を絶たれ、イェルスタに戻って大酒を飲むようになり、1820年に48歳で亡くなった。ホルムボーは奨学金で学校に残れるようにし、友人から資金を集めて大学進学を助けた。
1821年に大学に入ったとき、すでにノルウェー随一の数学者だった。そのころ五次方程式を冪根で解く問題に取り組んだ。この問題は250年以上、数学者が解こうとして解けなかったものである。1821年には解けたと考え、大学の教授たちは誤りを見つけられなかった。コペンハーゲンのデーゲンも誤りを見つけなかったが、無名の学生が解いたとは信じがたく、楕円関数に向かうよう勧めたという。1824年、一般の五次方程式の解の不可能性を証明した論文を自費出版した。1824年12月にクリスティーヌと婚約した。1825年9月から1826年2月にベルリンに留学してクレレと知り合い、クレレの雑誌に多数の論文を掲載した。1826年7月から12月はパリに留学し、科学アカデミーに論文を提出したが、ガウスは不快感を示し、コーシーは審査しないまま放置するなど、正当な評価を受けなかった。ヤコビやルジャンドルは業績を認めた。1827年5月20日に帰国し、同年9月と翌1828年5月に楕円関数の研究を発表した。
帰国後は大学の臨時講師を務めたが、結核と肝機能の障害に苦しみ、1829年4月6日に亡くなった。死の数か月前に完成させた論文は、没後に高く評価された。エルミートは、五百年のあいだ数学者が取り組めるものを残したと述べ、ルジャンドルは、若いノルウェー人の頭脳に驚嘆した。1830年にフランス学士院が大賞を贈り、2001年にはアーベル賞が創設され、肖像は長くノルウェーの500クローネ紙幣にも描かれた。可換群を指す「アーベル群」など、名を冠した数学用語は多い。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・シュレーゲル (1829年没)
- アレクサンドル・グリボエードフ (1829年没)
- ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1761-1829) (1829年没)
- アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク (1829年没)
- ルイ=ニコラ・ヴォークラン (1829年没)
同じ地域に関係する人物
- クヌート・クヌーツェン (1895年没)
- トリグヴェ・グラン (1980年没)
- ヨルゲン・ラヴランド (1922年没)
- Jacob Aall (1844年没)
- イェンス・マンク (1628年没)