伝記
法蔵は、唐代の僧で、中国華厳宗の第三祖とされる。貞観17年12月2日(644年1月17日)に生まれたとも、643年生まれともいわれ、没年は712年である。俗姓は康といい、先祖は中央アジアの康居の人で、ソグド系の家柄であった。生まれは長安で、一家はそこにあったソグド人の居住区に暮らしていた。父は康徳啓とも康謐ともいわれ、唐の朝廷で官位を持っていたとされるが、家系については不明な点が多い。母は、太陽の光を飲み込む夢を見て身ごもったと中国の伝記にある。賢首、香象といった呼び名があり、弟子たちは出家後の晩年、国一法師の称で呼んだ。
若くして仏教に関心を寄せ、15歳のとき、仏の指の骨を納めると伝わる法門寺の塔の前で自分の指を燃やした。これは当時よく行われた信仰の形であった。都で良い師を見つけられずに失望し、終南山に入って華厳経などの大乗経典を学び、薬草の仙薬を服する道教の修行にも取り組んだ。数年の隠遁ののち、両親が病んでいると聞いて長安に戻り、華厳経の知識で智儼を感心させて最初の師とした。663年ごろから在家の弟子として師事したが、各地を旅することも多く、ずっと師のそばにいたわけではない。668年に智儼が亡くなる前、二人の律の師に法蔵の世話を託した。その一人が同門の道成である。道成は新たに建てられた長安の太原寺の三綱の一人となり、法蔵はここで僧籍に入って生涯を送った。670年には勅命を受けて出家したとされる。同門には義湘がおり、のちに朝鮮に華厳宗を開いた。ほかに尼僧の弟子や、義湘のほかに二人の朝鮮出身の弟子、中国人の伝記作者もいたと考えられている。出家をめぐっては、菩薩戒を受けるには資格が高すぎたとか、奇跡のうちに行われたとかいう記述もあるが、完全な受戒の証拠は乏しいとされる。
出家ののちは、終南山の五真寺や至相寺と、都の太原寺を行き来して、しばしば華厳経を講じた。680年から687年にかけては、インド僧の地婆訶羅とともに、インドの経典を漢語に訳す仕事に携わった。688年から689年には、当時摂政の立場にあった武則天の命を受け、洛陽に高い華厳の講座と八会の道場を築いた。この催しは華厳経を広める機会となり、武則天との結びつきを強めた。武則天は間もなく690年に自らの王朝を立てる。このころ、翻訳僧の実叉難陀との共同作業も始まった。義湘とは、この時期も法友として手紙を交わしていた。
法蔵はサンスクリットに通じた翻訳者で、晋代に訳された華厳経には欠けるところがあったため、于闐国に原本を求め、実叉難陀や菩提流支らが改めて訳したとき、これに加わった。実叉難陀による80巻の華厳経の訳出や、義浄の訳経にも関わったという。のちに太原寺で華厳の宗旨を説いて皇帝の称賛を受け、京城の十大徳の一人に数えられた。宮廷の庭にあった鍍金の青銅の獅子を指し、金属は本質、獅子は事象にあたり、事象は本質と切り離せないと説いたことは、講義録『金師子章』に伝わる。
著作には、旧訳華厳経の注釈で二十巻の『探玄記』が最も名高く、『起信論義記』三巻、『五教章』三巻なども仏教学者に広く研究されてきた。弟子には文超、慧苑などがいる。華厳宗の教学は法蔵によって大成されたといわれ、華厳を弘めた第一人者として、近年の研究では事実上の開祖とみる学者もいる。武則天の庇護を受けて華厳教学を宣揚し、法門寺から仏舎利を迎えたとも伝わる。義浄に宛てた書簡も現存し、よく知られる。712年に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- アンスプランド (712年)
- ウマル・ビン・ラビーア (712年)
- アリペルト2世 (712年)
- Dahir of Aror (712年)