伝記
アブー・サイード・アル=フドリー(サアド・ブン・マーリク・ブン・シナーン)は、預言者ムハンマドの教友の一人で、教友のなかでは年少の世代に数えられる人物である。メディナのハズラジュ族に属し、通称のアブー・サイードで知られた。フドリーという呼び名は、祖先のフドラに由来するとされる。母はムハンマドに忠誠の誓いを立てた女性たちの一人で、よく知られた教友が母を同じくする異父兄弟にあたる。
父マーリクはウフドの戦いに出ようとした。アブー・サイードも13歳でこの戦いに参加を申し出た。父は息子の体はもう戦えるほどに育っていると訴えたが、ムハンマドは許さなかった。マーリクは戦死し、遺された家族には暮らしの手立てがなかった。母に送り出されたアブー・サイードがムハンマドに助けを求めると、ムハンマドは他人に求めず、いま持っているもので満足し、辛抱するようにと諭した。伝承によれば、以後アブー・サイードは誰にも援助を求めなかったという。
初めてムハンマドとともに出陣したのは塹壕の戦いで、その後さらに12の遠征に加わった。リドワーンの誓いにも居合わせ、誓いを立てた教友のなかに数えられる。一度はシリアにウマイヤ朝のカリフ、ムアーウィヤを訪ねたが、生涯の住まいはメディナだった。ムアーウィヤのもとを訪れたダマスカスでは、気に入らない振る舞いを咎めたといわれ、そのときの根拠はムハンマドの言葉だった。ほかにも、マルワーンが祭日の説教を礼拝の前に行ったことを、スンナに反するとして異議を唱えたと伝えられる。また、ウマルの前でアブー・ムーサー・アル=アシャリーが、戸を三度叩いて返事がなければ引き返すようムハンマドが勧めたと述べたとき、ウマルは証人を求め、アブー・ムーサーが連れてきたのがアブー・サイードだった。64年(683年)のハッラの戦いでは、メディナの人々とともに町を守ったと伝えられる。
学者としては、教友のなかでも指折りの法学者とされ、「イマーム」「メディナのムフティー」と呼ばれた。ハディースは1170が彼の伝承に帰され、千を超える伝承を残した七人の教友の一人である。アブー・バクルやウマルからも伝承を受け、アブドゥッラー・ブン・ウマル、ジャービル・ブン・アブドゥッラー、アナス・ブン・マーリクら多くの人々が彼から伝えた。ハディースの筆記を禁じたムハンマドの言葉として最もよく広まっている伝承も、彼に由来する。弟子たちが記憶した伝承を書き留めようとしたとき、彼は許さず、ハディースがクルアーンのようなものにされないよう戒めて、記憶によって保つことを勧めた。伝承の数は集成によって異なり、アフマド・ブン・ハンバルのムスナドには955、ブハーリーとムスリムの二つのサヒーフには合わせて111が収められている。シーア派は彼の伝承を一律には退けないが、自分たちの典拠と照らし合わせて扱う。筆記を拒んだことが多くの伝承者に悪用され、数々の作り話が生まれたと考えるからである。
最期が近づくと、息子をバキーウ墓地に連れて行き、離れた場所を指して埋葬を望むと告げ、墓の上に霊廟を建てず、自分の死に喪も行わないよう命じた。没年は63年(682年)、64年、65年、74年(693年)などと伝わるが、74年とする説が有力とされる。メディナで没し、自ら選んだ場所に葬られた。イスタンブルにも象徴的な墓があるが、コンスタンティノープルの包囲で亡くなりそこに葬られたという伝承には、歴史的な根拠がない。
同じ年に亡くなった人物
- ベッガ (693年)
- ブリデ3世 (693年没)
- アブドゥッラー・イブン・ウマル (693年)
同じ地域に関係する人物
- ウマル・イブン・ハッターブ (644年没)
- ムスアブ・イブン・ウマイル (625年没)
- Abu al-As ibn al-Rabi (634年没)
- アーイシャ・ビント・アブー・バクル (678年没)
- アリー・ザイヌルアービディーン (713年没)