HISTORICAL PERSON · 644年没

ウマル・イブン・ハッターブ

第2代正統カリフ。若い頃はムハンマドを迫害したが改宗し、アブー・バクルを後継者に推して634年にカリフとなった。ヒジュラ紀元を定め、シリア・イラク・エジプトへ遠征軍を送ってアラブの大征服を指導した。

生涯
644年没
死亡地
サウジアラビア王国(マディーナ州 / マディーナ)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マディーナ州)

伝記

ウマル・イブン・ハッターブは、592年頃に生まれ、644年11月3日に没した、初期イスラーム共同体の指導者の一人で、634年から644年まで第2代の正統カリフを務めた人物である。アラビア半島西部の都市マッカに住むクライシュ族のアディー家の出で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られた。610年頃にムハンマドがイスラーム教を開くと、彼はクライシュ族の伝統的な信仰を守る立場から、布教を迫害する側に回った。

伝えられるところでは、ある日怒りに任せてムハンマドを殺そうと出かけたが、道すがら妹と妹婿が改宗したと聞いて行き先を変え、妹の家に乗り込んで二人を打ちすえた。ところが、妹が兄の前で唱えたクルアーンの章句に心を動かされて悔い改め、自らもイスラームに帰依したという。ウマルがムスリムになると、クライシュ族の人々はその武勇を恐れて迫害を弱め、人望のあった彼の一家の支えは、最初期の布教を進めるムハンマドを大いに助けたといわれる。622年にムハンマドらがマディーナへ移るヒジュラを行ったのちは、共同体の有力者の一人として、クライシュ族とのすべての戦いに参加した。娘ハフサはムハンマドの4番目の妻となっており、彼がムハンマドの盟友として重要な立場にあったことがうかがえる。

632年にムハンマドが死去すると、マディーナでは古参のムハージルーンと新参のアンサールが、後継者の地位をめぐって対立した。ウマルはただちに、ムハンマドの古い友人でムハージルーンの最有力者だったアブー・バクルを推し立てて争いを収め、クライシュ族の有力者がカリフとして共同体を率いる慣行のきっかけをつくった。アブー・バクルが2年後の634年に死去すると、その後継者に指名されて第2代カリフとなった。当初は「神の使徒の代理人の代理人」を名乗る一方で、のちにカリフの一般的な称号となる「信徒たちの指揮官」も採用した。ヒジュラの年を紀元1年とするイスラーム暦を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づく法解釈を整えて、のちのイスラーム法につながる法制度を準備した。

彼の治世に、アラブの大征服は大きく進んだ。サーサーン朝と東ローマ帝国は長い戦いで疲弊しており、イスラーム軍はその隙をついて勢力を広げた。635年にダマスカスを占領し、636年にはヤルムークの戦いで東ローマ軍を破ってシリアを制した。同年のカーディシーヤの戦いでサーサーン朝を破り、637年には首都クテシフォンを占領した。639年にエジプトへ侵攻し、642年にアレクサンドリアを陥落させ、同年のニハーヴァンドの戦いでも勝利した。征服地では、ハラージュやジズヤの徴収制度を整え、バスラ、クーファ、フスタートなどの軍営都市を築き、ディーワーンを置いて、税を俸給として有力者や戦士に支給する体制をつくった。638年にはエルサレムに入り、総主教ソフロニオスと会談して、キリスト教徒を庇護民として保護することを約束したとされる。

644年11月、ウマルはマディーナのモスクで礼拝中に、ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷アブー・ルウルウに刺され、重傷を負って3日後に亡くなった。動機は、ハラージュを課された主人への恨みだったという。死の直前、彼は6人の有力者による協議会を指名し、その互選でウスマーンが第3代カリフに選ばれた。スンナ派では理想的な指導者として尊敬され、「真偽を分かつ者」を意味するファールークと呼ばれる。一方、アリーのみを正統な後継者とみなすシーア派では、批判の対象となる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物