伝記
キニチ・ハナーブ・パカル1世は、古典期後期のマヤの都市パレンケの王である。603年に生まれ、683年に没した。パレンケを大国に成長させ、盛んに建築を行った王で、パカル大王とも呼ばれる。同名の支配者が他にもいるため「1世」を付けて呼ばれる。名のキニチは「偉大な太陽」、パカルは「盾」を意味し、ハナーブの意味は不明である。
誕生の日付は、マヤの長期暦で603年3月23日にあたるとされる。父はカン・モー・ヒシュ、母はサク・ククといい、母はパレンケの王家の血を引いていた。父は二番手の貴族で、その家系は従属的な系統であったらしい。生まれた頃のパレンケはたびたび他国の侵略を受けており、611年4月4日には当時の超大国カラクムルの勢力に攻撃され、略奪された。その後、わずか16か月ほどの間に祖父と大叔父があいついで亡くなり、王朝は危機に陥った。トルトゥゲーロでは別の人物が王位を主張し、両者は後に戦火を交えることになる。パカルの両親はパレンケに戻って即位を働きかけ、諸貴族と同盟を結んだとみられる。
615年、12歳で即位した。7月26日に母から王の権威の印を授けられたと伝えられ、その場面は宮殿の家Cの浮彫りに刻まれている。以後、80歳で没するまでの68年間にわたってパレンケを統治した。治世の詳細は不明な点が多いが、それまで小国だったパレンケは、パカルが没するころまでに安定した強力な国に成長していた。治世の初期には東のポモナや西のコマルカルコを破って国を安定させた。659年には遠く離れたティカルの王ヌーン・ウホル・チャークがパレンケを訪れている。目的は明らかでないが、共通の敵であるカラクムルに対抗するためかもしれないという。626年ごろにはツァクブ・アハウと結婚し、のちに王位を継ぐキニチ・カン・バラム2世(635年〜702年)とキニチ・カン・ホイ・チタム2世(644年〜711年)の二子が生まれたとされる。
パカルは大規模な建築を行ったことでも知られる。宮殿の家E、B、C、A、Dを造り(AとDは没後かもしれないという)、碑文の神殿の建設に着手した。碑文の神殿はのちに子のカン・バラム2世が完成させ、カン・バラム2世は有名な十字グループも建てた。702年に即位したカン・ホイ・チタム2世も建築事業を続けたが、711年に南のトニナに攻撃されて捕虜となった。
1949年以降、メキシコの考古学者アルベルト・ルスが碑文の神殿から地下へ通じる階段を見つけて発掘を進め、1952年に王の墓室を発見した。中央の巨大な石棺の蓋には、トウモロコシの神の扮装をした若いパカルが描かれ、縁にはパカルとその先祖の没した日付が記されていた。遺体は大量のヒスイの装身具で飾られ、ヒスイの仮面がかぶせられていた。墓が発見された当時、被葬者は「ピラミッドの主」とも呼ばれた。ルスは棺の蓋の誕生日の日付から被葬者を「8アハウ」と呼んだが、1970年代にリンダ・シーリーとピーター・マシューズが碑文からパレンケ王朝史を解明し、王名の文字に盾が使われていたことから「パカル」と呼んだ。フロイド・ラウンズベリーは、名が表音的に書かれていることを指摘した。シーリーらは没年齢を80歳とするが、ルスは骨の研究から不可能だと反対し、論争は1979年のルスの没後も長く続いた。2006年の再調査では、67.5歳から90.7歳の間と判断された。
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