伝記
イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタルは、7世紀後半のアラブ人の将軍である。正統カリフのアリーに仕えた父の後を継ぐように軍人となり、アリー家支持派の指導者ムフタールと、ウマイヤ朝に対抗してカリフを称したアブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイルに仕えた。691年10月に戦死した。
父はアリー軍の将軍で支持者でもあったマーリク・アル=アシュタルである。一家はナハ族に属し、そのためアル=ナハイーの名で呼ばれた。ナハ族はマズヒジュ族の一部であった。母が同じで父の異なる兄弟アブドゥッラフマーンも軍人であった。イブラーヒームは、父や兄弟と同じく、657年のスィッフィーンの戦いでアリーとともにウマイヤ家と戦ったと伝えられる。
頭角を現したのは、ムフタールの下に加わってからである。ムフタールは685年(翌年とも)にクーファの支配権を奪い、まもなくシリアからウバイドゥッラー・イブン・ズィヤード率いるウマイヤ朝軍の侵攻に直面した。ムフタールは、大部分がペルシア人のマワーリー(被征服民のイスラームへの改宗者)からなる部隊の指揮をイブラーヒームに委ねた。イブラーヒームは北へ進み、モスルの東のハーズィルで、686年にウマイヤ朝軍と戦った。この戦いでウマイヤ朝軍に壊滅的な打撃を与え、ウバイドゥッラーを自ら討ち取った。フサイン・イブン・ヌマイルら他の高位の指揮官も戦死した。イブラーヒームが指揮官たちの首をムフタールに送ると、ムフタールはそれをマディーナとイラクの一部を支配していた対抗カリフのイブン・アッ=ズバイルのもとへ送った。
687年までに、ムフタールはウマイヤ朝軍の敗走後に支配下に置いたモスルの総督にイブラーヒームを任命した。ところが同じ年、ムフタールはイブン・アッ=ズバイルの弟ムスアブにクーファで包囲され、戦いのなかで殺された。その後、ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリクが自陣営に引き入れようと働きかけたが、イブラーヒームはズバイル家の側へ移った。英語圏の説明には、ウマイヤ朝の軍が680年にフサイン・イブン・アリーを殺したことから、ウマイヤ朝こそ討つべき相手だと考えたためだとする記述がある。
691年10月、イブラーヒームはマスキンの戦いでムスアブとともにウマイヤ朝軍と戦ったが敗れ、戦死した。戦いの後、遺体はウマイヤ朝軍に収容されて焼かれた。この戦いでウマイヤ朝はズバイル家の勢力を破り、イラクを再征服した。息子のヌゥマーンは、720年にヤズィード・イブン・アル=ムハッラブがウマイヤ朝に反乱を起こした際、そのクーファの軍のうちマズヒジュ族とアサド族の部隊の指揮官を務めた。歴史家ヒュー・ケネディは、イブラーヒームを、マルワーン家のウマイヤ朝統治下(684年から750年)にクーファが生んだ最も才能のある将軍と評している。
同じ年に亡くなった人物
- テウデリク3世 (フランク王) (691年没)
- ザイナブ・ビント・ジャフシュ (691年没)
- ムスアブ・イブン・アッ=ズバイル (691年)
同じ地域に関係する人物
- アブー・サイード・フドリー (693年没)
- Abdullah ibn Salam (663年没)
- ラーディー (940年没)
- サウダ・ビント・ザムア (674年没)
- ダウド・パシャ (1851年没)