伝記
ロスタム・ファッロフザードは、イスパーフバド家の有力者で、サーサーン朝の君主ボーラーンとヤズデギルド3世のもとで、アドゥルバーダガーンの北西の四分区(クスト)のスパーフベド(軍司令官)を務めた人物である。史上の人物として記憶されるだけでなく、叙事詩『シャー・ナーメ』の登場人物でもあり、多くのイラン民族主義者にとっての拠り所ともなっている。
イスパーフバド家は、イランの七大貴族の一つで、サーサーン朝の上層貴族を構成した。軍司令官の系譜を引き、国の要職を占めてきた。伝説によれば、パルティア(アルサケス朝)王プラアテス4世の娘コシュムが「全イラン人の将軍」に嫁ぎ、その子孫が「アスパフペト・パフラウ」の称号を帯び、のちのイスパーフバド氏族になったという。この家は、サーサーン家の「親族にして同盟者」と認められるほど高い地位にあった。ロスタムの父ファッルフ・ホルミズドはホスロー2世の従兄弟で、曾祖父シャープールはホスロー1世の従兄弟だった。一族の本来の故郷はホラーサーンらしいが、やがてアドゥルバーダガーンの北西の四分区を治めるようになった。そのためロスタムの生地は、アルメニア、アドゥルバーダガーン、ハマダーン、レイのいずれかと伝えられる。兄弟のファッロフザードは都クテシフォンで活躍して高い地位を得、ホスロー2世の寵臣だったといわれる。
602年、東ローマ皇帝マウリキウスがライバルのフォカスに殺されると、ホスロー2世はその仇討ちを名目に開戦した。約20年に及んだこの戦争で、ホスローは当初エジプトを含む近東のローマ領を征服した。しかし第三の段階にあたる624年に形勢は一変し、新帝ヘラクレイオスがトランスコーカサスを征服して、サーサーン朝の北西部は無防備になった。多くのイランの大貴族は、ビザンツの勝利とホスロー2世の政策に不満を抱いた。ロスタムもその一人で、1万の兵を率いてアドゥルバーダガーンで反乱を起こした。ほぼ同じころ、ヘラクレイオスは同州に侵攻し、ガンザクの都市を略奪した。歴史家パルヴァネ・プールシャリアーティは、この侵攻の成功について二つの可能性を挙げる。反乱の重大さが侵攻を可能にしたという見方と、父ファッルフ・ホルミズドがホスロー2世への支持をやめたことが侵攻を許したという見方である。
627年までに有力なミフラーン家の将軍シャフルバラーズが反旗を翻し、ファッルフ・ホルミズドは密かに彼と通じてホスロー2世に背いた。翌628年、ホスロー2世はシャフルバラーズ、ファッルフ・ホルミズドとその二人の息子ロスタムとファッロフザードを代表とするイスパーフバド家、アルメニア勢力のヴァラズティロツ2世・バグラトゥニ、カナーランなど、帝国内の有力勢力によって打倒された。彼らはホスロー2世の子カワード2世を王位に就けたが、カワードはほどなく父を処刑した。ホスロー2世の没落は628年から632年のサーサーン朝の内戦へつながり、大貴族は自立して独自の政府を築き始めた。630年4月、アルダシール3世がシャフルバラーズに殺され、そのシャフルバラーズも、在位40日でファッルフ・ホルミズドらのクーデターにより殺された。ファッルフ・ホルミズドは同年6月下旬ごろ、ボーラーンを王位に就けた。
同じ年に亡くなった人物
- Sigeberht (636年没)
- Abd-Allah ibn Umm-Maktum (636年没)
- テオドロス (636年没)
- ホスロー4世 (636年没)
- クウィチェルム (ウェセックス王) (636年没)
同じ地域に関係する人物
- Abu 'Amr ibn al-'Ala' (774年没)
- シャイフ・トゥースィー (1067年没)
- Ibrahim al-Nakhai (714年没)
- ザイド・ブン・アリー (740年没)
- Ibn Abi Shaiba (910年没)