HISTORICAL PERSON · 216年没

張魯

後漢末の五斗米道の指導者。漢中で張脩の教団を併合して独立し、義舎を設けるなど善政を敷いた。朝廷にその支配を追認されたが、215年に曹操の攻撃を受けて巴中へ逃れ、財宝を封印して残した。

生涯
216年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江蘇省 / 豊県)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

張魯は、中国後漢末期の五斗米道(後の正一教)の指導者である。字は公祺。豫州沛国豊県の人で、生年は不明、建安21年(216年)に没した。祖父の張陵は巴蜀の道教教団の創始者とされ、信者から5斗の米を受け取ったことから「米賊」とも呼ばれた。教団は父の張衡に受け継がれ、その死後に張魯が後を継いだ。母は巫術に長けた美貌の持ち主で、益州での独立をねらう益州牧の劉焉の家に出入りして取り入ったという。

張魯は劉焉の命で、督義司馬となった張脩とともに漢中太守の蘇固を攻めた。蘇固は張脩らに殺され、その後、張魯は張脩を殺してその軍勢を奪い、教団を一つにまとめた。劉焉の死後に子の劉璋が跡を継ぐと、張魯は従わず、漢中郡で独立して漢寧郡と改称した。怒った劉璋は建安5年(200年)、張魯の母と弟の張徴ら家族を捕らえて処刑した。張魯は巴の異民族の指導者である杜濩、朴胡、袁約らを説いて劉璋に背かせ、劉璋は巴西に龐羲を送って対抗したが、両者は冷戦状態のままとなった。

張魯は自らを「師君」と称し、門徒を「鬼卒」と呼んで、道術を深く学んだ者を「祭酒」に任じ、教団が大きくなると「祭酒」の上に「治頭大祭酒」を置いた。誠実を旨として嘘を戒め、病人が出ると過失を告白させた。漢寧では街道が整えられ、休憩所や食堂のような「義舎」が造られた。信者から得た5斗の米も自分の享楽にはほとんど使わず、扶助に充てたため、当時としては珍しい善政とされる。朝廷は張魯を鎮民中郎将・漢寧太守に任じてその支配を追認した。住民から玉印を献上され、部下が漢寧王を名乗るよう勧めたときは、閻圃が「王を名乗れば災厄を受ける」と諫め、王号は名乗らなかった。

建安16年(211年)に曹操軍の鍾繇が張魯征伐を名目に動くと、関中の韓遂・馬超らが疑って立ちはだかり、潼関の戦いが起きた。曹操がこれを破った後、関西から数万の住民が子午道を通って張魯のもとへ避難した。敗れた馬超も龐徳らとともに漢中に身を寄せた。張魯は馬超に娘を嫁がせようとしたが、近侍の諫言で取りやめ、馬超は兵を借りて失地回復を試みて失敗し、のちに劉備のもとへ出奔した。

建安20年(215年)3月、曹操が大軍で漢中に攻め込んだ。張魯は降伏を考えたが、弟の張衛が反対して出陣し、初戦で曹操軍を退けたもののやがて敗れた。張魯は降伏しようとしたが、閻圃の「追い詰められて降伏しては軽く見られる」という進言を受け入れ、巴中に逃れた。その際、財宝の蔵を「国家の物だから」と焼かずに封印したため、曹操は南鄭を無傷で手に入れたという。曹操は使者を送って説得し、張魯は家族を連れて降伏した。曹操は張魯を鎮南将軍・閬中侯とし、賓客として遇した。5人の息子も侯に取り立て、娘は曹操の子の曹宇に嫁いだ。このとき龐徳なども張魯とともに降伏したが、馬超の子らは曹操の命で処刑された。劉備も黄権を巴中に送って張魯を迎えようとしていたが、曹操に先んじられたという。張魯は建安21年(216年)に死去し、鄴の東方に葬られた。諡号は原侯である。甘露4年(259年)に水害で棺が開いたとき、遺体は生きているようだったと伝えられる。長子の張富が爵を継いだ。張魯には男子十人と女子十人がいたとされ、東晋の書物には「張氏十龍、儒雅温恭」という当時の評判が記されている。『天師世家』には、三子の張盛が龍虎山に入り、正一教の第4代天師になったとある。小説『三国志演義』では、張魯は漢寧王を望む強欲な教祖として描かれている。

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