伝記
蘇軾は、中国北宋の政治家であり、宋代随一の文豪とされる人物である。景祐3年12月19日(1037年1月8日)に生まれ、建中靖国元年7月28日(1101年8月24日)に没した。号は東坡居士、字は子瞻、諡は文忠公で、坡公や坡仙の名でも敬慕された。文学のほか、書家、画家としても優れ、音楽にも通じた。父の蘇洵、弟の蘇轍とともに唐宋八大家に数えられる。
眉州眉山県、現在の四川省眉山市東坡区の出身である。8歳で道士張士簡の塾に入り、13歳で弟の蘇轍とともに劉巨の門下で作詩を学んだ。20歳までに経書や史書に通じ、賈誼や陸贄の書を好み、『荘子』を読んで深く感銘を受けたとされる。嘉祐2年(1057年)、22歳で蘇轍とともに進士に及第した。この科挙は欧陽脩が試験委員長を務め、当時流行の文体の答案を退けて達意の文章だけを合格させる大改革を行った試験で、合格したのは蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみであったという。その後は地方官を歴任して英宗の時に中央に入ったが、治平3年(1066年)に父が亡くなると郷里に帰って喪に服し、政界に復帰したのは煕寧2年(1069年)、34歳のときであった。
神宗の時代には王安石の主導で新法が進められたが、蘇軾は欧陽脩、司馬光らとともに反対し、二度にわたり遠い土地へ左遷された。最初は元豊2年(1079年)、44歳で湖州知州のときで、国政を誹謗した罪で逮捕され、御史台で厳しい取り調べを受けた。このときの供述書は後に「烏台詩案」と呼ばれる。死を覚悟したが、神宗の特別な計らいで黄州へ左遷された。黄州では左遷先の土地を東坡と名づけて自ら東坡居士と名乗り、足かけ5年にわたって自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦しい暮らしを送った。しかしこの間に文学は大きく成長し、最大の傑作『赤壁賦』が生まれた。彼が遊んだ赤壁は、実際の古戦場ではなく、古くからそこを合戦の場とする民間の伝承があったと考えられている。
1085年に神宗が没し、幼い哲宗に代わって宣仁太后高氏が政治をとると旧法党が要職に就き、蘇軾も名誉を回復されて50歳で中央に復帰し、翰林学士などを経て礼部尚書まで昇進した。ただし、新法をすべて廃止しようとする宰相司馬光に対し、募役法のように理にかなった法は残すべきだと論じて激しく争った。司馬光の死後は蜀党、洛党、朔党の三派の党争となり、蘇軾は攻撃の的となって地方と朝廷を転々とした。1094年に新法派が力を持つと、59歳で恵州へ流され、さらに海南島へ追放された。黎族が住む熱帯の島で侘しい生活を送ったのち、66歳で哲宗が没して徽宗が即位すると許され、提挙玉局観の名誉職を授けられたが、都へ向かう途中で病を得て常州で亡くなった。
こうした苛酷な運命にあっても楽天性を失わず、天性のユーモリストと評される。弟の蘇轍とは兄弟愛が深く、多くの離別詩を弟に贈った。書では米芾、黄庭堅、蔡襄とともに宋の四大家とされ、代表作の『黄州寒食詩巻』は、元豊5年(1082年)、47歳のときに寒食節の詩2首を行書で書いたものである。画では士夫画を提唱し、自身も墨竹をよくした。政敵であった王安石とも、詩文を通じた交流があったという。墨の収集に熱心で、自作に挑んで山火事を起こしたこともある。生涯を知る最も確実な資料は、没後まもなく蘇轍が書いた墓誌銘とされる。豚の角煮「東坡肉」の名も、彼の詩に由来するという。
同じ年に亡くなった人物
- フセスラフ・ブリャチスラヴィチ (1101年没)
- ムスタアリー (1101年没)
- ケルンのブルーノ (1101年没)
- 蘇頌 (1101年没)
- コンラート (イタリア王) (1101年没)