伝記
メアリ・ウルストンクラフトは、イギリスの社会思想家で作家、フェミニズムの先駆者である。1759年4月27日、ロンドンでイングランド系アイルランド人の家庭に、六人の子供の第二子として生まれた。父エドワードは専制君主的な人物で、母や家族に暴力をふるい、威圧的に接した。豊かな財産を相続しながら、無益な事業に浪費し、一家はイギリス各地を転々とした。1778年、19歳のときに、自活するため家を出た。1780年に母エリザベスが病気で亡くなった。1783年には、重病の姉妹イライザを看護し、乱暴者の夫から助け出して、離婚が成立するまでかくまった。メアリは姉妹たちとともに学校を設立した。
1787年に、162頁のパンフレット『少女の教育についての論考』を執筆した。これは利益をもたらし、彼女は文筆で身を立てる決意を固めた。同年ロンドンに移り、出版者で急進的書籍を企画していたジョゼフ・ジョンソンに会って、作家として生計を立てる決意を述べると、ジョンソンはこれを歓迎した。多くの小編、翻訳、抄訳を執筆し、1788年にジョンソンが雑誌『分析的書評』を創刊すると、その常連の寄稿者となった。これを機に、ロンドンの知識人や急進的思想家のサークルに受け入れられた。1789年、30歳のメアリは、激しい仕事をこなしながら、困窮した父の面倒を見て、姉妹や兄弟のための生活の手段や社会的地位の確立にも惜しみない援助を行った。また亡くなった友人の遺児で7歳になる子供の世話もしていた。
フランス革命を否定的に評価したエドマンド・バークに対し、メアリは反論を書き、多くの人を魅了した。『人間の権利の擁護』を著し、機会の均等に基礎を置く社会を描き、上層階級の特権を否定し、個人の才能こそが成功の必須条件だと説いた。1792年には、『女性の権利の擁護』を執筆出版した。これは、少女の教育は少年とは別でよく、従属的で従順にすべきだとしたルソーの『エミール』への反論でもあった。「女性は生まれながらにして男性に劣っているわけではない。教育の欠如が両性の格差を生んでいる」とし、男女ともに理性的存在として扱われるべきだと主張した。ホレス・ウォルポールは彼女を「ペティコートをはいたハイエナ」と呼ぶなど批判した。
メアリは画家ヘンリー・フューズリに恋をしたが、彼は妻帯者だった。思いを断ち切り、進行中のフランス革命を観察するため、単身でパリに渡った。1793年、アメリカ人ギルバート・イムレーと恋に落ちて同棲を始め、結婚は選ばず、パリではイムレー夫人を名乗った。二人の間に娘ファニーが生まれた。やがてイムレーが北欧での事業の代理者を求め、メアリがその役割を引き受けて発った。北欧で受け取った手紙はひどく冷淡で、見捨てられたことを覚った。1795年10月、ロンドンに戻り、パトニー橋からテムズ川へ身を投げたが、救助された。
1797年、結婚制度を否定することで知られる無政府主義の思想家ウィリアム・ゴドウィンの子を身ごもった。生まれてくる子が私生児として差別されることを恐れ、同年3月29日、二人は教会で結婚式を挙げた。しかし、これまでの主張を覆したため、多くの友人を失った。8月30日に娘メアリを産んだが、11日後の9月10日、38歳で産褥熱のため亡くなった。この娘が、のちにパーシー・シェリーと結婚して、小説『フランケンシュタイン』の作者として名高い、メアリ・シェリーとなる。
同じ年に亡くなった人物
- 王貞儀 (1797年没)
- サミュエル・オーギュスト・ティソ (1797年没)
- ホレス・ウォルポール (1797年没)
- パスクワーレ・アンフォッシ (1797年没)
- ダゴベルト・ジークムント・フォン・ヴルムザー (1797年)
同じ地域に関係する人物
- エイミー・ワインハウス (2011年没)
- リチャード・ハリス (2002年没)
- アメリア・ダイアー (1896年没)
- バジル・ヒューム (1999年没)
- ピーター・レリー (1680年没)