HISTORICAL PERSON · 2002年没

リチャード・ハリス

アイルランドの俳優・歌手。1968年発表の「マッカーサー・パーク」が全米2位、全英4位を記録した。息子2人も俳優になった。

生涯
2002年没
死亡地
イギリス連邦(カムデン区 / ユニヴァーシティ・カレッジ病院)
出生地
アイルランド(リムリック)
出典
世界地図
イギリス連邦(カムデン区)

伝記

リチャード・ハリスは、1930年10月1日にアイルランドのリムリックで生まれた俳優であり歌手である。製粉業を営む父イヴァンと母ミルドレッドの子で、きょうだいの五番目だった。生家はリムリックの裕福な地区にある赤レンガの大きな屋敷だったという。イエズス会が運営するクレセント・カレッジで教育を受け、ラグビーの才能に恵まれて、地元の強豪チームでも活躍した。しかし十代で結核にかかり、競技の道を断たなければならなくなった。その後も生涯、ラグビーの熱心なファンであり続け、俳優仲間のピーター・オトゥールやリチャード・バートンらと、試合会場でいたずらをした話が多く伝わる。

結核が治ると、映像の仕事に就きたいと考えてイングランドに渡り、監督の修業を志した。だが製作を専門に学べる学校がなかったため、演劇学校に目を向けた。24歳のときに王立演劇学校の試験に落ち、セントラル演劇学校には年齢が高すぎるとして断られたが、諦めずに探して、ロンドン音楽演劇アカデミーに入った。在学中に、小さなアーヴィング劇場を借りて、クリフォード・オデッツの芝居を自分で演出して上演してもいる。課程を終えると、ジョーン・リトルウッドの劇団「シアター・ワークショップ」に加わり、1956年の「クェア・フェロー」を皮切りにウエスト・エンドの舞台にも立った。ほぼ十年間は無名のまま、英国各地の舞台で俳優の仕事を学んだ。

映画では1959年ごろから出演を始め、『ナバロンの要塞』(1961年)では、島の巨大な砲台を空襲で壊すのは不可能だと報告する空軍パイロットを、短い出番ながら印象深く演じた。『戦艦バウンティ号の叛乱』(1962年)では、映画の観客にはほとんど知られていなかったのに、尊敬するマーロン・ブランドの下の3番目に名前を載せるよう求めたと伝えられるが、撮影中の態度をめぐってブランドと不仲になった。初の主演作は『孤独の報酬』(1963年)で、ラグビーリーグの花形選手になる、苛立った若い炭鉱夫を演じ、カンヌ国際映画祭の男優賞とアカデミー主演男優賞候補の評価を得た。ハリウッドに進出し、憧れていたカーク・ダグラスの知己も得て、その推薦で、ミュージカル映画『キャメロット』(1967年)にアーサー王役で主演した。

知性と男臭さを併せ持つ演技で、『ジャガーノート』『カサンドラ・クロス』『ワイルド・ギース』などのアクション映画を中心に活躍した。歌手としても成功し、1968年に出したジミー・ウェッブ作の「マッカーサー・パーク」は、全米2位、全英4位を記録した。1972年には、ロンドン交響楽団などによるアルバム『トミー』に客演している。1980年代にはアルコール依存と薬物依存で低迷したが、それを克服して舞台を中心に活動を続けた。1990年の映画『ザ・フィールド』では土地に執着する初老の農夫を演じ、『孤独の報酬』以来27年ぶりにアカデミー主演男優賞の候補となった。以後は『許されざる者』や『グラディエーター』などで、貴重な脇役として再び銀幕に現れた。

『ハリー・ポッター』シリーズの最初の二作では、魔法学校の校長ダンブルドアを演じ、『秘密の部屋』が遺作となった。2002年10月25日、ホジキンリンパ腫のため亡くなった。息子のジェイミーとジャレッドも俳優になった。2003年には英国インディペンデント映画賞に「リチャード・ハリス賞」が設けられ、2006年9月30日には、アイルランドに等身大の銅像が建てられた。

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