HISTORICAL PERSON · 619年没

カンタベリーのラウレンティウス

ベネディクト会修道士で、第2代カンタベリー大司教。597年にアウグスティヌスとともにイングランドで宣教し、その後を継いだ。ケント王エゼルベルトの子エドバルドが信仰を捨てた際、再び改宗させたと伝わる。

生涯
619年没
死亡地
イギリス連邦(ケント / カンタベリー)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケント)

伝記

カンタベリーのラウレンティウスは、ベネディクト会の修道士で、第2代カンタベリー大司教である。生年は不明で、619年2月に没した。没日は2月3日とも2日ともいわれる。キリスト教をイングランドに根づかせるうえで大きな役割を果たした人物で、没後は聖人として崇敬された。ローマで修道士をしていたことは知られるが、それ以前の経歴や出自はわかっていない。

ラウレンティウスは、アングロ・サクソン人の古来の異教からの改宗をめざして595年にローマから送り出されたグレゴリウス1世の宣教団の一員だった。597年にアウグスティヌスとともにケントのサネット島に上陸したとされる。ただし到着は601年で、最初の一団には加わっていなかったとする説もあり、はっきりしない。ベーダによれば、アウグスティヌスはケント王エゼルベルトの改宗という布教の成功を報告し、質問を記した手紙を教皇に届けさせるため、ラウレンティウスをローマへ送った。同行したのは宣教師のペトルスで、598年7月以後に出発し、遅くとも601年6月までには戻ったとされる。持ち帰ったグレゴリウスの回答は『返答の書』と呼ばれ、ベーダの『イングランド教会史』に収められた。ケント王妃ベルタに宛てた教皇の手紙には、夫の改宗におけるベルタの働きを、司祭ラウレンティウスから聞いたと記されており、これは彼のことだろうとされる。601年夏には、メリトゥスら第二陣の宣教師とともにイングランドへ戻った。

604年ごろ、ラウレンティウスはアウグスティヌスの跡を継いでカンタベリー大司教となり、没するまでその座にあった。アウグスティヌスは、空位が宣教に響くことを恐れ、教会法では禁じられていたにもかかわらず、自分の存命中にラウレンティウスを司教に叙階して後継を確実にした。ただしラウレンティウスはローマからパリウムを受けておらず、教皇庁からは教会法に合わない存在と見られたかもしれないという。610年、ラウレンティウスはメリトゥスをローマに送り、イングランド教会の諸問題について助言を求めた。メリトゥスは教会会議に出席し、その決定を持ち帰った。教皇ボニファティウス4世は、ラウレンティウスをアウグスティヌスの後継の大司教として宛てた書簡を送った。613年には、アウグスティヌスが建てたカンタベリーの修道院教会を、聖ペトロと聖パウロに捧げて聖別した。この教会は、のちに聖アウグスティヌス修道院として聖別し直されたという。また、スコットランド人やブリトン人の司教に書簡を送り、復活祭をローマ教会と同じ日に祝うよう求めた。だが、現地の司教との溝を埋める試みは成功しなかった。609年には、土着の司教ダガンがラウレンティウスと食事を共にせず、同じ屋根の下にも入ろうとしなかったと、ラウレンティウス自身が述べている。

616年にエゼルベルトが死ぬと、息子のエドバルドは従来の信仰に逆戻りし、ロンドン司教のメリトゥスやロチェスター司教のユストゥスなど、多くの宣教師がガリアへ逃れた。ラウレンティウスはイングランドにとどまり、エドバルドを再びキリスト教に改心させた。ベーダが伝える逸話では、宣教をあきらめかけていたラウレンティウスの夢に聖ペトロが現れ、叱責して鞭で打った。夢から覚めると鞭の痕が残っており、それをエドバルドに見せると、王は改心を決めたという。ただしベーダは、異教派の指導者たちが戦死したことが、ラウレンティウスを思いとどまらせた真の理由だったとほのめかしている。619年に没した。

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