伝記
タルソスのテオドルスは、カンタベリー大司教を務めた聖職者で、カトリック教会、正教会、聖公会で聖人とされる。602年ごろに生まれ、690年9月19日に没した。ビザンツ帝国の属州キリキアのタルソスの出身である。著作から、神学の重要な中心地アンティオキアで教育を受けたと推測され、聖書を歴史的・文献学的に読む点でアンティオキア学派の注釈家と共通する。エデッサにも滞在した可能性があり、シリア語のキリスト教に触れたのはそのどちらかだったという。
613年にはササン朝ペルシアがシリアに侵攻し、637年にはイスラム勢力の征服でビザンツ人が追われた。修道士となった彼がコンスタンティノープルに現れたのは、こうした侵攻から逃れたためかもしれない。そこで当代随一の学者アレクサンドリアのステファノスに学んだ可能性もある。のちローマへ行き、キリキア出身の修道士が暮らすアド・アクアス・サルウィアス修道院に滞在したらしい。649年に教皇が開いたラテラン教会会議の議事録の作成にも、おそらくかかわったとされる。
664年にカンタベリー大司教デウスデディトゥスが亡くなると、後任の叙階のためローマに派遣されたイングランド人司教ウィグハルドが疫病で死んだ。教皇ウィタリアヌスはナポリ近郊のニリダン修道院長ハドリアヌスを大司教に選んだが、ハドリアヌスは二度断り、友人のテオドルスのほうが適任だと推薦した。当時ローマにいた彼は66歳であった。教皇はテオドルスを任命することをためらい、ハドリアヌスに同行を求めた。東方式に頭を丸く剃っていた彼は、冠の形の剃髪にするため髪が伸びるのを4か月待たねばならず、668年3月26日に大司教に叙階された。二人はローマを発って、マルセイユから陸路でアルルへ進み、ネウストリアの宮宰エブロインの通行証を得て別れた。テオドルスは病を得てカンティウィクに留まったのち海峡を渡り、669年5月にカンタベリーへ着いた。ハドリアヌスは670年に合流し、サン・ピエール修道院長の職を与えられた。
着任したとき、イングランドに司教は3人しか残っていなかった。彼は新たな司教を叙任し、ダンウィッチ、ロチェスター、ウィンチェスターの座を埋めた。ベーダによれば、ハドリアヌスとともに全土を巡って弊害をただし、修道の規則と、教会法に基づく復活祭の祝い方を広めた。測量術や天文学、教会算術(暦)をラテン語、ギリシア語とともに教え、ケントの教会にだけ知られていた聖歌もイングランド全体に広まり始めた。670年(672年または673年ともされる)、ハートフォードの司教会議を主宰して、教会規則や婚姻の掟など10箇条を定めた。この会議はイングランド聖職者の最初の大きな会合で、毎年の集会を決め、大きすぎる司教区の分割の必要も示した。ヨークの大司教区を分割したことで有力な司教ウィルフリドの反発を招き、ウィルフリドは678年に罷免されたとされる。
679年にはマーシア王エゼルレッドとノーサンブリア王エグフリッドの間の戦争が広がるのを憂い、両者を諭して講和を仲介した。680年のヒースフィールドの司教会議では、キリストに神性と人性の共存を認めない異説(エウティケス派)を斥けることを確認し、単意説をめぐる論争でイングランドの教会が教皇アガトを支持することも承認した。690年に没し、聖ペテロ教会(現在の聖オーガスティン修道院)に埋葬された。彼は初代大司教アウグスティヌスの方針を継ぎ、より成功させた。それは古来のケント教会の風習とローマの儀式・教義を融和させ、イングランド全体の教会をカンタベリーに統合することであった。
同じ年に亡くなった人物
- 額田王 (690年)
- Julian of Toledo (690年)
- アルザス公アダルリック (690年)
- Al-Bara' ibn Azib (690年)
- アイギナのパウロス (690年没)
同じ地域に関係する人物
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- ナイジェル・ステップニー (2014年没)
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