伝記
恭帝侑(楊侑)は、隋の第3代皇帝である。在位は617年12月18日から618年6月12日までで、619年9月に没した。第2代皇帝煬帝の孫にあたり、父は煬帝の皇太子で元徳太子と呼ばれた楊昭、母は韋寿の娘の韋妃である。605年に生まれたとされる。楊昭の三人の息子のうち末子とみられるが、確実ではない。603年生まれの楊倓は明らかに兄であり、もう一人の楊侗は生年が不明で、三人が王に封ぜられた順序で侑が最後だったことが、末子とみる唯一の手がかりである。それでも母が楊昭の正妻だったため、儒教的な継承の原則からすれば、本来は楊昭の正統な後継者とされるべき立場だったという。楊倓と楊侗の母は、楊昭の妾にすぎなかったからである。
楊昭は606年に亡くなったが、煬帝は三人の孫のいずれも皇太子に立てず、後継の問題をあいまいなままにした。煬帝が行ったのは、三人の孫を王に封じることだけだった。楊侑は607年に陳王に封ぜられ、のちに代王に改封された。煬帝が高句麗遠征に出ると、都の長安(大興城)に総留事として残された。名目上は都の責任者だったが、実際に管理や防衛を担ったのは補佐役の学者衛文昇であり、613年に楊玄感が反乱を起こして洛陽を攻めたときも、衛文昇が長安の兵を率いて洛陽の防衛に向かった。615年には煬帝の晋陽行幸に従い、太原郡太守に任じられたが、まもなく京師に戻った。
617年、唐国公李淵は、突厥の攻撃を防げなかったことで煬帝の怒りを買うのを恐れ、また李という人物が次の皇帝になるという予言のために煬帝から疑われていたとされ、太原で挙兵した。李淵は、隋の忠臣であるかのように装い、楊侑を新たな皇帝に立て、江都にいる煬帝を太上皇として迎えると唱えた。李淵が長安に迫るなか、衛文昇は到着前に亡くなり、長安の守りと楊侑の補佐は、衛文昇の部下の陰世師と骨儀が受け持っていた。同年の冬、李淵の軍勢は長安の防備を破って都を占拠した。11月とも12月ともされる時期に、楊侑は大興殿で隋の皇帝に即位した。李淵は尚書令・大丞相に任じられ、唐王に封ぜられて国政を任された。ただし楊侑を皇帝と認めたのは李淵の支配下にある郡だけで、それ以外の地域は煬帝を皇帝とみなしていた。
実権は李淵の手にあり、楊侑は唐王の称号を李淵に与えさせられた。陝西や四川の大部分の郡が、ほどなく李淵に服した。618年春、李密が洛陽を攻めると、李淵は息子の李建成と李世民の軍を送ったが、洛陽の隋軍は新たな唐王の権威を認めず、両軍は接触しないまま退いた。同年3月に煬帝が宇文化及に殺害され、5月にその知らせが長安に届くと、楊侑は李淵に帝位を禅譲した。ここに隋は滅亡した。楊侑は唐の酅国公に封ぜられた。
楊侑は619年9月に亡くなった。李淵の命令によるものだった可能性も指摘されている。洛陽で擁立され、のちに王世充に殺された異母兄の楊侗は、楊侑が李淵に禅譲した経緯のため、正統な皇帝とは見なされていない。ただ、禅譲後も楊侗は619年まで隋の帝位を主張し続けた。
同じ年に亡くなった人物
- 始畢可汗 (619年没)
- ヨハネス・モスコス (619年)
- John the Merciful (619年(推定))
- アブー=ターリブ (619年没)
- カンタベリーのラウレンティウス (619年没)
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