伝記
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオは、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家で、紀元前111年に執政官を務めた人物である。生年は伝わっていない。同名の父と区別するため、紀元前111年の執政官と呼ばれる。
ローマ筆頭の名門パトリキの一つ、コルネリウス氏族のスキピオ家に生まれた。父は紀元前138年の執政官で、最高神祇官も務めた同名の人物である。この父は、従兄弟で護民官だったガイウス・センプロニウス・グラックスとその支持者が虐殺された事件の首謀者として、むしろ有名である。母方をたどると、スキピオ・アフリカヌスの子孫にあたる。祖父は二度執政官を務め、監察官と最高神祇官にもなったスキピオ・ナシカ・コルクルムである。妻はクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスの娘で、カエキリウス・メテッルス家と縁戚になった。メテッルス家やマルクス・アエミリウス・スカウルスらが進めたグラックス兄弟に敵対する政策を、彼も支持したとされる。
なお、スキピオ・ナシカ・セラピオという家族名を用いているのは、大プリニウスの『博物誌』と『イースター・クロニクル』だけで、カピトリヌスのファスティではスキピオ・ナシカとなっている。早い時期の経歴は分かっていないが、ウィッリウス法の定める年齢条件から逆算すると、遅くとも紀元前114年には法務官を務めたはずである。紀元前118年に法務官に選ばれたとする説もある。紀元前111年、プレブスのルキウス・カルプルニウス・ベスティアとともに執政官に就任した。前年にユグルタ戦争が始まっており、くじ引きの結果ベスティアが出征することになったため、ナシカはイタリアに留まった。しかし任期が終わる前に死去し、厳粛な葬儀が営まれた。補充の執政官は選ばれなかった。
業績はほとんど伝わっていないが、同時代の人々には好まれていたようである。キケロは、父とは異なって話術に長け、権力を持ちながら常識的であったと記し、演説の回数は多くなかったものの、純粋なラテン語では誰にも負けず、洒落や機知では誰にも優ったと述べる。シケリアのディオドロスは、その高潔さ、公務への積極的な取り組み、言葉だけでなく行いにも表れた知恵への献身を称えた。ただし、近寄りがたく陰気な人物だったと伝えるともいわれる。大プリニウスは庶民に非常に愛されていたと書いている。
息子のプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカは紀元前93年に法務官在任中に没した。孫のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカは、ポンペイウス・マグヌスの義父となった。
同じ年に亡くなった人物
- アドヘルバル (紀元前111)
同じ地域に関係する人物
- レオ2世 (ローマ教皇) (683年没)
- スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス (紀元前485年没)
- アルベルト・キュヒラー (1886年没)
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム (紀元前141年没)
- ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ (1680年没)