伝記
魏収は、506年(正始3年)に生まれ、572年(武平3年)に没した北斉の文人・学者である。字は伯起、諡は文貞。本貫は鉅鹿郡下曲陽県で、父は北魏の武将であった魏子建、子に魏仁表がいる。北魏の正史『魏書』の撰者として知られる。
若いころは父に従って辺境の遠征に同行し、軍人になることも考えたという。しかし15歳ですでに豊かな学識を備え、文章も書けたため、やがて学問に専念した。21歳で太学博士となり、その後、吏部尚書の李神儁の推薦で書記の職を得た。531年、節閔帝は側近を探すにあたり、魏収に『史記』の封禅書を書き写させて腕を試した。魏収は非常な速さで書き上げ、千字ほどのうち後で直す必要のある字はごくわずかだった。感心した帝は官位を上げ、散騎侍郎として起居注(皇帝身辺の記録)を管掌させ、国史の編修にも当たらせた。このとき中書侍郎も兼ね、まだ26歳だったとされる。
節閔帝の没落後は広平王元賛の側近となったが、孝武帝が実力者の高歓と対立すると、病を口実に宮廷から退き、危うい政争に関わるのを避けた。539年には王昕とともに東魏の使者として南朝梁に赴き、武帝とその臣下に強い印象を与えたとされる。翌年、晋陽にいた高歓の幕下に配属されたが、単なる文書係としての仕事に不満を抱き、魏の歴史の編纂を願い出て許された。高歓の死後は子の高澄が実権を握り、魏収に50通を超える布告の作成を命じた。魏収がこれを一日で仕上げると、高澄は感嘆し、魏収は温子昇や邢卲より優れていると述べた。この三人は「北地三才」と称された。北魏末から東魏・北斉にかけての詔書の多くには魏収の文が採用され、律令の改修や礼典の整備にも功績を残したといわれる。
550年に高洋(文宣帝)が即位すると、魏収は禅譲を受けるための詔勅を起草し、中書令・著作郎に任じられた。551年、北魏史の編纂を正式に命じられ、554年に『魏書』130巻を完成させて奏上した。同じ年に梁州刺史となり、その3年後には皇太子の少傅に任じられて北斉の国史編纂も監督し、北斉の法典の作成にも加わった。559年には高洋から名誉の称号を与えられ、560年にも官位を重ねて尚書省の右僕射の地位を得た。563年には妻の妹にあたる李公統の母が年齢を偽って刑を免れようとしたのを助けたとして高儼に訴えられ、官籍から除かれた。しかし翌年には清都の長官に任じられ、565年には左光禄大夫となり、566年から567年にかけては斉州刺史の代行を務めた。567年には宮廷に戻り、569年に再び右僕射となった。572年には『修文殿御覧』の編纂に参加し、同じ年に66歳で亡くなった。
一方で、評判は芳しくなかった。軽薄で好色、傲慢だとされ、権力者に平気で媚びたともいわれる。梁への使者の際には迎賓館に妓女を連れ込んで梁側の顰蹙を買い、「驚蛺蝶」とあだ名された。548年には梁の使者徐陵を侮辱して、高澄により数日間投獄された。『魏書』は、自分の意見に従う者だけを史官に任命し、敵対した者を貶め、記述が公平でないと非難され、「穢史」とも呼ばれた。初めの稿には百人を超える人々が、先祖の官職が誤って記されている、あるいは載っていないと抗議した。文宣帝は公開の審理を命じたが、魏収は感情を抑えられず、かえって不利になったという。こうした怨みを買ったため、577年に北斉が滅ぶと墓が暴かれ、遺骨は外に棄てられた。70巻あった文集は伝わらない。