伝記
始皇帝は、中国史上初の皇帝である。紀元前259年2月18日に生まれ、紀元前210年9月10日に没した。戦国時代の秦の第31代君主で、王としての在位は紀元前247年から紀元前221年、皇帝としての在位は紀元前221年から紀元前210年にあたる。諱は政で、後世には嬴政とも呼ばれる。生まれたのは秦ではなく趙の首都邯鄲であったため、趙政とも称された。
父の異人は、のちの荘襄王である。秦の公子でありながら、祖父の安国君にとっては20人以上いる子の一人にすぎず、休戦協定の人質として趙に送られて冷遇されていた。これに目をつけた韓の裕福な商人呂不韋が、安国君の継室である華陽夫人に工作を行い、異人が将来の跡継ぎとなる約束を取りつけた。異人は呂不韋の妾であった趙姫を気に入って譲り受け、昭襄王48年の冬に男児を授かった。これが政である。『史記』は趙姫が譲られた時にすでに妊娠していたと記し、政を呂不韋の子とするが、臨月の期間の矛盾などから疑問が呈され、郭沫若も三つの論拠をあげて否定している。紀元前258年に秦軍が邯鄲を包囲すると、異人は脱出したが、政は母とともに置き去りにされた。趙は二人を殺そうと探したものの、二人は巧みに潜伏して見つからなかった。陳舜臣は、この幼少期の体験が始皇帝に鋭い観察力を与えたのではないかと推察している。
紀元前250年、安国君が孝文王として即位すると異人が太子となり、趙は10歳の政を母と共に咸陽へ送り返した。孝文王は即位から3日で亡くなり、荘襄王が即位して呂不韋は丞相に任じられた。紀元前247年に荘襄王も在位3年で死去し、13歳の政が王位を継ぐと、呂不韋が相国として政務を執り、仲父と呼ばれるほどの権威を得た。紀元前241年、五国の合従軍が秦に攻め入ったが、函谷関で撃退された。呂不韋は多くの食客を養い、紀元前239年には『呂氏春秋』の編纂を完了している。同じ年には異母弟の成蟜が挙兵したが、鎮圧された。
紀元前238年、22歳になった政は雍に入り、太后と関係を持って権勢を得ていた嫪毐が反乱を起こしたとされ、一族と太后との二人の子もろとも殺された。呂不韋の関与も明らかになり、翌年に相国を罷免され、封地の河南での蟄居を命じられた。のち蜀への流刑を告げられた呂不韋は、やがて死を賜ることを悟って服毒自殺した。政は葬儀で哭泣した者まで処分したという。親政の開始後、韓の鄭国による水路工事をきっかけに他国出身者を追放する令が提案されたが、荀子に学んだ楚出身の李斯が『諫逐客書』を上書して撤回を求め、政は聞き入れて李斯を深く信頼した。政は、法を重んじる『韓非子』にも感嘆し、韓に攻撃を仕掛けて紀元前233年に著者の韓非を謁見したが、韓非は李斯と姚賈の謀略で死に追いやられた。
紀元前221年、政は中国史上初めて天下を統一した。王に代わる新しい称号として、三皇五帝にちなむ「皇帝」を定め、「皇」には「光輝く」の意があり、しばしば天を指す語としても用いられていた。これを「帝」と合わせた称号で、どの君主をも超える存在となる意思を示したとされる。「始」は最初を意味し、代を重ねて二世皇帝、三世皇帝と名乗る構想であった。こうして最初の皇帝として始皇帝と号した。李斯らと郡県制による中央集権を築き、貨幣や計量単位を統一し、道路を整備した。万里の長城の整備や兵馬俑で知られる始皇帝陵の造営、儒家や方士を弾圧した焚書坑儒でも名高い。統一後は各地を巡り、紀元前210年に旅の途中で49歳、数え年で50歳で急死した。