伝記
アルボイーノは、ランゴバルド族の王(在位560年から572年)であり、イタリア王(在位568年から572年)でもある。530年代にパンノニアで生まれたとされ、没年は572年6月28日である。ランゴバルド人が長い移動を終えてイタリアに定住した時代の王で、北イタリアを征服し、その後の数世紀に及ぶランゴバルド支配の端緒を開いた。
父はアウドイン、母はロデリンダである。母は東ゴート王国を興したテオドリック大王の姪だった可能性があり、アルボイーノは東ゴート王族アマル家の血を引くとされる。父と同じく異教の中で育った。父の時代、先王ワッコの死後にその子ワルタリが幼くして即位し、アウドインが摂政として国を治めたが、ワルタリの死後にアウドインが自ら王位に就き、それまでの王家レティング家を退けた。アルボイーノは最初の妻として、キリスト教徒であるフランク王クロタール1世の娘クロトジンドを迎え、一人娘アルプスインダが生まれた。結婚の時期は、555年のテウデバルトの死の直後とも、561年ごろの即位後ともいわれる。
アルボイーノが戦場で名をあげたのは、隣接するゲピド族との戦いである。552年のアスフェルドの戦いでゲピド王トゥリシンドの子トゥリスモドを討ち、東ローマ皇帝ユスティニアヌスが両勢力の均衡を保つために介入するきっかけとなった。伝承によると、父の食卓に着く資格を得るため、外国の王の宮廷で武器を贈られる必要があり、アルボイーノはトゥリシンドのもとを訪れて、トゥリスモドの武具を受け取ったという。即位は560年から565年のあいだとされ、部族の自由民の選挙で、先王の一族から選ばれた。当初はゲピド族が優勢だったが、567年にアヴァール人と同盟して決定的な勝利を収め、ゲピド族をその首長もろとも虐殺した。このとき、王クニムンドの娘ロザムンダを後妻に迎えた。前妻クロトジンドは、それ以前に亡くなっていた。
新たな隣人となったアヴァール人の力が増すことに不安を覚えたアルボイーノは、ゴート戦争のあとで守りの弱まった東ローマ帝国領をねらい、イタリアへ移ることを決めた。多くの民族を集めた大連合を率い、568年にユリア・アルプスを越えると、ほとんど無防備のイタリアに入り、ヴェネティアとリグリアの大半をたちまち掌握した。569年には抵抗なくミラノを取ったが、パヴィアは激しく抵抗し、三年に及ぶ包囲の末にようやく落ちた。その間にトスカーナへも目を向けたが、支持者の内部で派閥の兆しが現れ、軍への統制も弱まりつつあった。
572年6月28日、アルボイーノは暗殺された。東ローマの後押しを受けたクーデターで、王の乳兄弟ヘルミキスが組織し、妻ロザムンダが加わった。ロザムンダは王が殺したゲピド王の娘であった。計画はランゴバルド人の多数の反対で失敗し、人々はクレフを後継に選んだ。ヘルミキスとロザムンダは帝国の保護下にあるラヴェンナへ逃れたが、ラヴェンナ総督ロンギヌスはロザムンダに自分の妻になるよう説いた。ロザムンダは風呂上がりのヘルミキスに毒杯を飲ませ、毒と悟ったヘルミキスは剣を抜いて残りを飲むよう強要し、二人は同時に死んだ。娘アルプスインダはランゴバルドの財宝とともにコンスタンティノープルへ送られ、その後の消息は不明である。アルボイーノの武勇と戦いでの成功は、その後も長く、サクソン人やバイエルン人の英雄叙事詩にうたわれた。
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