伝記
耶律堯骨は、契丹(遼)の第2代皇帝である。太祖耶律阿保機の次男で、漢名を耶律徳光といい、廟号は太宗である。902年11月25日に生まれ、947年5月18日に没したとされる。母は阿保機の妻の述律氏である。若い頃は、容貌が厳かで性情は穏やかであったと『遼史』に記され、両親の国政にもしばしば加わったという。
922年、父の阿保機がすでに皇帝となっていた頃、堯骨は天下兵馬大元帥の称号を与えられ、南の隣国である晋の領内への侵攻を指揮した。923年には平州を攻め落とし、奚の胡遜部も破ったとされる。のちには太祖に従って、党項の服属、河西回廊の制圧、渤海の撃破などにも加わったと伝えられる。926年、太祖は渤海の征服に乗り出して扶余城を落とし、旧渤海の地に東丹国を置いて、堯骨の兄の耶律突欲(耶律倍)を王とした。堯骨は元帥皇太子とされ、突欲がそれまで担当していた首都臨潢の統括を任された。その直後、太祖は扶余で病没した。
太祖の崩御後、皇后の述律氏が実権を握り、帝位はしばらく空位となった。述律氏は次男の堯骨を推しており、諸部の長を集めて、どちらを皇帝とするか手綱を取って示すようにと告げた。長たちは皇后の意向を察して堯骨のもとへ駆け寄り、手綱を握った。こうして927年(天顕2年)、堯骨は第2代皇帝として即位した。退けられた突欲は怒り、数百の兵を連れて後唐へ逃れようとしたが、国境の守備兵に止められて東丹に送り返された。即位後の堯骨は、母を皇太后として敬い、皇后には述律氏の姪にあたる蕭氏を立てた。母が病で食事をとれなければ自分も食べず、母の機嫌が悪ければ和らぐまで会おうとしなかったと伝えられる。930年には弟の耶律李胡を皇太子に立てた。同じ年、突欲は東丹から後唐へ逃れた。935年には皇后の蕭氏が次男の耶律罨撒葛を産んだ後に病没し、堯骨の治世のうちに新たな皇后は立てられなかった。
933年に後唐の明宗が崩御すると、後継をめぐる争いが表面化し、突欲は堯骨に後唐への軍事介入を促した。後唐の皇帝李従珂は、河東節度使の石敬瑭が反乱を起こすのではないかと疑い、936年に石敬瑭を別の地に移す詔を出した。石敬瑭は身の危険を感じて挙兵し、契丹に援軍を求めた。自分を中国の皇帝として支援するなら、堯骨を父として仕え、燕雲十六州にあたる地を割譲すると約束したのである。契丹の援護を受けた石敬瑭は李従珂を滅ぼして後晋を建てた。この混乱のなかで、突欲は李従珂に暗殺された。堯骨は燕雲十六州を、南へ進むための拠点として整備した。
後晋は事実上、契丹の傀儡政権であったが、942年に石敬瑭が没すると、契丹からの独立を図るようになった。これを懸念した堯骨は軍を挙げて南下し、946年には首都の開封府を陥落させて華北を占領し、後晋を滅ぼした。翌947年の正月元日(1月25日)、堯骨は開封に入城し、国号を中華風に大遼と改め、年号を大同とした。ただしその後も、契丹と遼の国号は併存した。しばらく開封にとどまったが、遠征で兵站に支障が生じたため、3か月後に開封を発って北の幽州へ戻ろうとした。その途中、欒城で病没した。享年46であった。子には、のちに穆宗となる耶律述律、太平王となった耶律罨撒葛、耶律天徳、冀王の耶律敵烈、越王の耶律必摂らがいる。娘の耶律呂不古は燕国大長公主となって蕭思温の妻に、耶律嘲瑰は蕭海瓈の妻になった。
同じ年に亡くなった人物
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- ウーゴ (イタリア王) (947年没)
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- 石敬瑭 (942年没)
- 始皇帝 (紀元前210年没)
- ノーマン・ベチューン (1939年没)
- Yu Xu (2016年没)