HISTORICAL PERSON · 569年没

真諦

西インド生まれの訳経僧で、鳩摩羅什・玄奘・不空金剛と並ぶ四大訳経家。南朝梁の武帝に招かれ、動乱の中でも『摂大乗論』『倶舎論』など76部315巻を訳し、瑜伽行唯識学派を伝えた。

生涯
569年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
インド(インド)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

真諦は、六朝時代の中国で仏典の翻訳に力を尽くしたインド出身の僧である。パラマールタとも呼ばれ、499年に生まれ、569年に没した。鳩摩羅什、玄奘、不空金剛とともに四大訳経家の一人に数えられる。『続高僧伝』には、音訳で拘那羅陀や波羅末陀と書かれ、意訳で真諦、あるいは親依というと記されるが、一般には真諦の呼称で通用している。

西インドのウッジャイニーに生まれた。本名のクラナータは「一族の救い主」の意で、両親はバーラドヴァージャ氏族のバラモンだったとされる。インドで仏教の僧となり、各地へ法を広める旅に王族の支援を受けたとみられる。539年には、後期グプタ朝のジーヴィタグプタの指示で、中国の使節団に大乗の経典の翻訳の手助けをしたらしい。最初に向かった先は扶南国、すなわちアンコール以前のカンボジアであった。そこで名声が高まり、南朝梁の武帝が使者を送って招いたという。

真諦は広州を経て中国に入り、建康に到着した。到着の年は546年とも548年ともいわれる。しかし、時は侯景の乱に端を発する南朝梁末の動乱のさなかで、招いた武帝もすでに亡く、都には昔日の面影がなかった。真諦は梁末から陳にかけての難を呉郡に避けて翻訳事業を始めた。二十人ほどの優れた僧からなる翻訳の一団とともに働いたが、政変と混乱で作業はしばしば中断された。数年後、『金光明経』から本格的に再開した。その後も各地を転々としながら翻訳を続け、古い訳を見直して、語句と全体の意味に食い違いがないかを確かめもした。その訳経は講学と一体で、訳した経典には義疏や注記が加えられたが、拠点を持たない流浪の生活のため、まとめて保存することは難しかった。

晩年には、仏法を広めるという渡来の真意が妨げられていると感じ、南海を経てインドへ帰ろうと決意した。しかし西への帰路は不可能だと感じて果たせず、欧陽頠の後援を受けて広州にとどまり、求めに応じて再び訳経に従事し、講経や講論にも努めた。562年から569年にかけては安定した後援を得て広州にとどまり、慧愷、僧宗、法准、僧忍ら主な弟子たちとともに、『阿毘達磨倶舎釈論』や『摂大乗論』などの重要な翻訳をまとめた。南中国で名が知られるようになり、遠くから教えを聞きに来る弟子も多かったという。没する前年には、帰依した一門が建康仏教界への復帰を求めたが、都の有力な僧から反対が相次ぎ、実現しなかった。569年、70歳で没し、仏塔が建てられた。

生涯に訳した経論は76部315巻に及び、『摂大乗論』、『倶舎論』、『金七十論』などが含まれる。大乗仏教の中では瑜伽行唯識学派を伝えた。唯識の思想に仏性の思想を結びつけた教えをもち、清浄な識とされる阿摩羅識や、本覚の教えの源としても伝統的に見られている。没後、訳出した経論は北方に受容され、弟子たちによって『摂大乗論』と『摂大乗論釈』を拠りどころとする摂論宗が成立し、真諦はその祖とされるに至った。真諦訳とされる『大乗起信論』は後代の中国や日本の仏教徒に大きな影響を与えたが、真諦の訳とすることには現代の学者の間に疑問もあり、見解は分かれている。『中辺分別論』や、陳那の二つの論書も訳した。また法性宗の主要人物ともされ、心には清浄で超越的な要素があり解脱はその本来の清浄を取り戻すことだとする立場は、心は不浄で徹底的な転換が必要とする玄奘の学派と対立したという。陳が隋に滅ぼされた混乱も、訳業の保存に拍車をかける困難となった。

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