HISTORICAL PERSON · 1754年没

マフムト1世

オスマン帝国の第24代皇帝。パトロナ・ハリルの乱で叔父が廃位され擁立されると、反乱を鎮圧して実権を握り西欧化の改革を進めた。イランやロシア、オーストリアと戦い、ベオグラード条約で停戦した。

生涯
1754年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / イスタンブール)
出生地
トルコ共和国(エディルネ)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

マフムト1世は、1696年8月2日に生まれ、1754年12月13日に没したオスマン帝国の第24代皇帝で、在位は1730年から1754年である。第22代ムスタファ2世の息子で、オスマン3世の兄、先代のアフメト3世の甥にあたる。猫背に育ったため「せむし」とも呼ばれた。

エディルネの宮殿で母サリハ・スルタンのもとに生まれ、父がエディルネで過ごしたため同地で育ち、1702年から教育を受けた。1703年に父が退位させられると、他の皇子たちと同じくトプカプ宮殿のカフェスに幽閉され、即位までの27年間をそこで過ごした。詩を書き、歌い、チェスをして過ごしたとされる。1730年9月、パトロナ・ハリルの乱で叔父が廃位され、マフムトが擁立された。しばらくは反乱側の手に帝国があったが、翌1731年11月24日にハリルを絞殺させ、支持した者も含む多数のイェニチェリを処刑して反乱を鎮圧し、実権を握った。以後は叔父が進めた西欧化の改革を続け、中断された建築事業の一部を完成させ、フランス人亡命者ボンヌヴァルを重用して軍事改革にも取り組んだ。

外交では、先代から続くイランのサファヴィー朝との戦争を継いだ。1730年にナーディル・シャーの反撃で先代の時に得た領土を失ったが、サファヴィー側が東のアフガン人の反乱を抱えたため、ナーディルは東へ向かった。1732年にアフメト・パシャ条約を結び、コーカサスの国境をアラズ川としたが、ナーディルはこれに反発して続行し、バグダードを奪われた。奪還のために派遣したトパル・オスマン・パシャは奪還に成功したものの、まもなくナーディルに討たれた。1735年までにガンジャなども奪われ、同年コンスタンティノープル条約でイランの南コーカサス領有を認めた。1743年にナーディルがイラクに侵攻したが撃退し、1744年のカルス包囲と翌年のカルスの戦いでオスマン側は壊滅したものの、1746年のケルデン条約で現状維持の和平が結ばれ、バグダードを守り抜いた。この条約の国境線が、現在のトルコとイランの国境のもととなった。

1735年からは、ロシアとその同盟国オーストリアとの戦争が始まった。1736年までにクリミアの要衝などをロシアに占領されたが、クリミアで疫病が流行してロシア軍が病死したため足止めに成功した。1737年に開戦したオーストリアには連勝し、ベオグラードを奪還した。1739年にロシア軍がヤッシーを占領すると、オーストリアとベオグラード条約を結び、ロシアともニシュ条約でアゾフの割譲だけにとどめた。以後は1768年に露土戦争が始まるまで平和が保たれた。

だが内部では腐敗が進み、平和を望んだ皇帝は宦官ハジ・ベシル・アーの強い影響下にあった。イェニチェリの株売買を認めて軍事力が低下し、徴税請負制が有力者に終身契約で競売にかけられた結果、のちのアーヤーンと呼ばれる地方有力者が台頭した。1748年にはフリーメイソンを禁じ、政務を宰相たちに任せて詩作に時間を費やしたともいわれる。1750年にはイスタンブールで大火が二度起きている。1754年、金曜礼拝から戻った直後に心臓発作で58歳で崩御し、弟のオスマン3世が継いだ。

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