伝記
ヘンリー・フィールディングは、1707年4月22日に生まれ、1754年10月8日に没した18世紀イギリスの劇作家、小説家、治安判事である。小説『トム・ジョウンズ』が代表作で、「イギリス小説の父」と呼ばれる。同時代のサミュエル・リチャードソンとともに、イギリス小説の伝統を作った人物と見なされている。
サマセット州グラストンベリー近郊のシャーパム・パークで生まれた。父エドマンドは、デンビー伯爵の血筋を引く貴族の出で、財産は乏しかったが、マールバラ公の軍で要職にあった軍人である。母サラは、サマセットの名家の出で、父は高等法院の判事を務めたヘンリー・グールド卿であった。両親の結婚は、祖父の同意を得ない駆け落ちによるもので、判事はいったん娘を相続から外したが、孫が宿っており、娘が一人娘でもあったため、結局は赦した。ヘンリーは七人きょうだいの長男で、のちに小説家となる妹サラもいる。幼い頃は、祖父の家と農場を行き来して育ち、父は不在がちだった。1718年、11歳のときに母が没すると、父は子供たちを祖母に預けてロンドンへ行き、翌年、寡婦アン・ラファと再婚した。この再婚で六人の異母きょうだいが加わり、そのなかには、のちに改革派の判事となるジョン・フィールディングもいた。母の死後の子供時代は楽ではなく、祖母は厳格で、父と衝突することがよくあったという。
1719年に祖母がイートン校に入れ、彼は1724年まで寄宿して、ギリシア・ローマの古典教育を受けた。後年、ウォルポールに宛てた詩に、ラテン語は書き、ギリシア語は読むと記している。この学校で、のちに大蔵大臣となり、フィールディングの後援者になるジョージ・リトルトンや、のちの首相ウィリアム・ピット(大ピット)と親交を結んだ。厳しい校風にもかかわらず、反抗的な面もあり、1725年には15歳の裕福な従姉妹を誘拐しようとしたとされる。学校を出た後は国内を旅し、ラテン語の古典を翻訳した。1727年にロンドンに居を構え、1728年の『恋の種々相』を皮切りに劇作に取り組んだ。風刺の効いた芝居で人気を博したが、政治批判の度重なる風刺劇を取り締まるため、1737年には上演を制限する演劇検閲法が出された。これで劇作家としての筆を折られた彼は弁護士に転身し、その傍ら新聞の編集長を務めてウォルポール内閣を批判し、小説も書き始めた。この法の影響で演劇の文学的重要性が弱まり、代わりに小説が注目されるようになったともいわれる。
小説では、1741年に『シャミラ』、1742年に『ジョウゼフ・アンドルーズ』、1743年に『ジョナサン・ワイルド』を発表した。1747年に判事に就任し、翌年にはウェストミンスターの治安判事に任命された。無給だったコンスタブルに定期的な給料を与えて組織し、犯罪を減らしたこの隊は、イギリス近代警察への第一歩とされる。1749年に代表作『トム・ジョウンズ』を発表し、1751年には『アミーリア』を出した。その後、病気が悪化したため、リスボンへ転地療養に出かけ、そこで没した。『リスボン航海記』は死後の1755年に刊行された。従姉妹のメアリー・モンタギューも小説を残している。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754) (1754年没)
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- リチャード・ミード (医師) (1754年没)
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