伝記
アブラーム・ド・モアブルは、1667年5月26日にフランスで生まれ、1754年11月27日にロンドンで没した数学者で、イングランドを拠点に活動した。三角関数に関するド・モアブルの定理や、確率・統計分野の業績で知られる。
シャンパーニュ地方のヴィトリー=ル=フランソワで、カルヴァン派の新教徒(ユグノー)であった父ダニエルと母アンのもとに生まれた。父は外科医で、裕福ではなかったが子供の教育に熱心だった。ヴィトリーはフランスの他の都市ほど宗教対立が鮮明でなかったため、当初はカトリックの教師にラテン語などを学び、11歳でスダンのプロテスタントの学校に移って、約4年間ギリシア語などを学んだ。友人の助けで算術の文献を読み込んだが、よい教師に巡り合えなかった。ソミュールのアカデミーでは論理学を学んだが、数学は課程に入っておらず、数学の諸書やホイヘンスの賭けごとに関する小論を独学した。1684年にパリへ出て物理学を学び、ジャック・オザナンの個人教授で初めて正式な数学教育を受けた。
1685年、ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を廃したことで、新教徒への迫害が強まった。この迫害が彼のフランスを離れる原因になったとされる。子供を新教徒の教化施設に送る当局の措置により、ド・モアブルもパリの修道院付属学校に入れられたという。亡命の正確な時期は不明だが、1687年8月28日には兄弟とともにロンドンのサヴォイ教会に受け入れられており、1686年から1687年の間と見られる。初めは居留民の資格しか認められなかったが、1705年に聖餐式を受けて市民権を得た。
ロンドンでは、家庭教師やコーヒー店での数学の個人指導で生計を立てた。デヴォンシャー伯を訪ねた際にニュートンの新著『プリンキピア』を見て、自分の学んだ本よりはるかに深いと悟り、読破を決意したが、生徒のもとへ歩く時間が長かったため、本の頁を破ってポケットに入れ、合間に読んだという。1692年にエドモンド・ハレーと知り合い、ついでニュートンとも親しくなった。1695年、ハレーはニュートンの微分法の改良に関するド・モアブルの論文を王立協会に報告し、同年に掲載された。1697年には多項定理の論文も出て、これらの業績で王立協会の会員となった。後年、ニュートンは数学の質問をする人々をド・モアブルのもとへ回し、「彼は私よりこうしたことをよく知っている」と言ったという話があるが、真偽は定かでない。
しかし亡命者の生活は苦しく、生涯を通じて困窮した。英国国教会以外に門戸を閉じていたためとも言われ、オックスフォード大学やケンブリッジ大学で常勤の職を得られず、大口の後援者もなく、研究成果の出版と家庭教師で食いつないだ。この窮状が、彼を確率論の中でも保険や賭けなど収益に結びつく分野へ向かわせた。1712年に『くじの測定』、1718年にそれを発展させた『偶然論』、1725年に保険数理の『生命年金』を出版した。のちは賭けのオッズや保険料率の算定を生業としたという。1754年11月27日、睡眠過多症により87歳で没した。業績のほとんどはイングランドでのものである。ド・モアブルの定理を証明し、負の二項分布や二項分布の極限としての正規分布、スターリングの公式として知られる近似式も彼の成果である。
同じ年に亡くなった人物
- サフダル・ジャング (1754年没)
- ジェイムズ・ギブズ (1754年)
- マフムト1世 (1754年没)
- リチャード・ミード (医師) (1754年没)
- Friedrich von Hagedorn (1754年)
同じ地域に関係する人物
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- シドニー・リー (1926年没)
- ジェームズ・ファーガソン (1886年没)
- リチャード・ホガート (2014年没)
- チャールズ・スピアマン (1945年没)