伝記
アマシス画家は、紀元前550年から510年ごろにかけてアテナイで活動した古代ギリシアの陶器画家である。黒像式の技法で壺に絵を描いた。名は、陶工アマシスが「アマシスが私を作った」と署名した12点の作品を、同じ手が描いたことに由来する。1985年の展覧会「アマシス画家とその世界」の時点で、132点の壺がこの画家の作とされていた。
その生涯や人柄については、ほとんど分かっていない。アマシスは当時のエジプト王の名のギリシア語形にあたるため、画家、少なくとも陶工のアマシスはエジプト出身の外国人だったのではないかと考える者もいる。ほかに、エジプトと取引の盛んだったアテナイで、エジプト風の名を持つアテナイ人だったという見方や、エジプト的な特徴にちなんで同時代の人々からつけられた通称だったという見方もある。エクセキアスが、エチオピア人を描いた図に「アマソス」と記した理由ははっきりしないが、同業のライバルだったアマシスを冷やかしたのだろうと一般に考えられている。エジプト出身の可能性はあるにせよ、画家がアテナイで技を学んだことは研究者の間でほぼ一致しており、師はおそらくハイデルベルク画家だとされる。ハイデルベルク画家は紀元前575年から550年ごろに活動し、シアナ杯の作品で知られる。アマシス画家は、すね当てを着ける戦士を大勢の見物人が囲む図など、その場面を借りることがあった。ただし人物の描写に細かさを加え、二重の帯状の縁取りやパルメットと蓮の花綱といった装飾に、自分の持ち味を出した。房飾りのある衣の表現からも、二人の近さがうかがえるという。
画業は、紀元前560年ごろから515年ごろまでのおよそ50年にわたった。黒像式のアッティカ陶器画が初期から成熟期へ移る時期にあたる。画風は総じて保守的だったが、媒体の進歩にあわせて変化もした。一方で、いくつかの流行は退け、一貫性を保ったため、生涯のなかでの作品の年代決定は難しい。初期・中期・後期に大まかに分けられるその歩みは、初心者から名匠への道のりを示している。R・M・クックは「初期の作品は型どおりでおとなしいが、成熟するにつれて、いっそう個性的な自信を見せる」と述べた。
署名入りの作品は、11点の黒像式の壺と1点の断片である。頸部のあるアンフォラ3点、オルパ(初期の形の酒壺)4点、帯状装飾の杯1点、杯1点、小さな鉢1点、化粧箱のピュクシス1点、断片1点が含まれる。署名は、アマシスが陶工であることを示す。12点すべてを一人の画家が装飾したため、陶工と画家は同一人物だと考える研究者もいた。だが、1971年にアマシス署名の一作品がタレイデス画家の手によると判定されてから、両者は慎重に区別すべきだとされる。ボードマンは、アマシス画家の壺の成形は絵と同じく独特で、二つの工程には共通の精神が感じられるため、陶工と画家は同じ人物だったのかもしれないと書いている。画家は、ワインや油の貯蔵に使うアンフォラ、注ぎ口のある酒壺、油壺、香油の容器、さまざまな飲用の杯など、幅広い形を装飾した。なかでも、高さ30〜35センチほどの小ぶりで扱いやすい形や、パネルなど狭めの画面を好んだようである。画題は、6世紀の壺絵師が扱えるほぼすべてに及び、165の場面のうち20が神話の物語場面だった。それでも、画家の特質と黒像式への最も大きな貢献は、神々や人間を描いた非物語的な場面と、数多くの風俗場面に表れている。特定の筋を持たない神々の交流を初めて描いた画家とされ、とりわけディオニュソスと陽気な従者たちの図は20回以上にのぼる。
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