HISTORICAL PERSON · 紀元前429年没

ペリクレス

古代アテナイの政治家・将軍で、最盛期を築いた。キモン追放後に最高権力者となり、15年連続で将軍に選ばれ、同盟資金でパルテノン神殿などを建てた。ペロポネソス戦争の最中、疫病にかかって没した。

生涯
紀元前429年没
死亡地
ギリシャ共和国(アッティキ / アテネ)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(アッティキ)

伝記

ペリクレスは、古代アテナイの政治家であり将軍である。生年は紀元前495年ごろとされ、没年は紀元前429年である。アテナイの最盛期を築いた重鎮として名高い。父クサンティッポスは、陶片追放を受けながら帰国し、紀元前479年のミュカレの戦いでアテナイ勢を率いた人物である。母アガリステは名門アルクマイオン家の出で、アテナイの改革者クレイステネスの姪にあたる。誕生の数日前に母がライオンを産む夢を見たという逸話が、ヘロドトスやプルタルコスによって伝わる。頭が異様に大きく、喜劇作家にからかわれたとされ、常に兜をかぶった姿で表されるのは、将軍の身分の象徴でもあった。

若いころは内気で、人前に出るのを避け、学問に時間を費やしたという。名門の出で暮らしにも余裕があり、音楽を学び、ソフィストのプロタゴラス、エレアのゼノン、そしてアナクサゴラスと交わった。とりわけアナクサゴラスとは親しく、強い影響を受けたとされ、感情に流されず落ち着いて事に当たる姿勢は、その感化によるとも言われる。紀元前462年には、貴族派のキモンが出征して不在の間に、民主派の同志とともにアレオパゴス会議の実権を奪い、市民全体の政治参加を進めた。翌年キモンが陶片追放で国外に去ると、以後アテナイの最高の権力者となった。

紀元前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年続けて将軍職に選ばれ、アテナイに全盛期をもたらした。ペルシアの脅威が薄れると、デロス同盟の盟主だったアテナイは、同盟資金を自国の繁栄のために使うようになる。ペリクレスは資金の管理をデロス島からアテナイへ移し、パルテノン神殿などの公共工事に充てて市民の暮らしを潤した。この工事によって、アクロポリスの現存する建造物の大半が造られたとされる。彼は芸術や文学も奨励し、彫刻家ペイディアスと親しく、建築家ヒッポダモスや歴史家ヘロドトスをアテナイへ招いた。同じ時代にはソポクレスやエウリピデスが活躍した。私生活では、紀元前445年ごろに最初の妻と離縁し、異邦人のアスパシアと長く連れ添った。二人の間には息子の小ペリクレスが生まれたが、彼女との関係は多くの批判を受け、政治的野心を持つ長男クサンティッポスまでが父を中傷したという。

同盟内のポリスに対するアテナイの態度が専制的になると、離脱を望む都市との対立が生じた。紀元前446年にエウボイア島を、紀元前440年にサモス島を従えたが、スパルタもこの動きを冷ややかに見て、離反したポリスを支援し、紀元前431年にペロポネソス戦争が始まる。その前の紀元前432年には、神域を荒らしたことなどへの報復として、メガラに交易を禁じる法令を出しており、これは歴史上初の外交政策としての経済制裁ともされる。ペリクレスは強力な陸軍を持つスパルタに対して籠城の策を取り、海戦の機会を待った。だが翌年アテナイに疫病が広がり、多くの市民が死んで、彼は急速に支持を失った。このように防御で敵の疲れを待つ方針は、後にペリクレス戦略と呼ばれる。

ペリクレスも疫病に感染し、紀元前429年に没した。家族の何人かも同じ疫病で亡くなったという。死の直前には、アスパシアとの間の子である小ペリクレスにアテナイ市民権が与えられた。両親ともアテナイ人の者に限る市民権法を、彼自身が提案していたため、衝撃的な決断だった。演説の巧みさでも知られ、演説で語られたアテナイと民主政をたたえる言葉は現代まで伝えられ、欧米の政治家の手本とされる。1954年発行のギリシャの旧50ドラクマ紙幣には、その肖像が使われた。

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