伝記
キティオンのゼノンは、古代ギリシアの哲学者で、ストア派の創始者である。エレアのゼノンと区別してこう呼ばれる。キプロス島のキティオン(現在のラルナカ付近)の出身のフェニキア人で、紀元前335年ごろの生まれとされ、前263年に没した。生年は確かでなく、伝わる享年の違いから前334年あるいは前360年と計算する場合もあるが、前334年とみる専門家が多いという。生涯に関する情報の大半は、ディオゲネス・ラエルティオスの伝えに由来する。
ゼノンはキプロスに住むフェニキア人の商人ムナセアスの子で、成人してから中年まで自らも商人として働いたと伝えられる。子どものころから哲学に関心を示し、父が商用の旅先でソクラテス派の書物を買い与えたという。22歳のとき(前312年ごろにあたる)、フェニキアの紫染料を輸出する航海の途中で船が難破し、アテナイに漂着した。偶然立ち寄った書店でクセノフォンの『ソクラテスの思い出』に感銘を受け、店主に教えられるまま、キュニコス派のクラテスに学んだ。ゼノン自身はこの出来事を運命の兆しと受け止めたとされる。師のクラテスは彼を「小さなフェニキア人」と呼んだ。その後、メガラ派のスティルポン、アカデメイア派のクセノクラテスやポレモン、弁証家ディオドロス・クロノスらに就いて学び、さまざまな思想の影響を受けながら、自分の思想を確立していった。
やがて35歳ごろの前301年に、アテナイの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で自らの講義を始めた。この場所の名から、彼に始まる学派はストア派と呼ばれる。はじめは「ゼノン派」と呼ばれた弟子たちが、次第に「柱廊の人々」とだけ呼ばれるようになった。門下にはアッソスのクレアンテス(のちに後継者となった)、キオスのアリストン、同郷のペルサイオスらがいる。彼はすぐに評判を得て、アテナイは生前に二度も公の栄誉を与え、城壁の鍵を託し、没後には決議で青銅像を建てたとされる。それでも彼はアテナイの市民権を受けず、キティオンの人と呼ばれることを望んだ。マケドニア王アンティゴノス・ゴナタスの招きに答えた書簡が伝わるが、これは偽作か、断るために年齢を誇張したものと考える説もある。
彼は、痩せて背が高く、浅黒い肌をし、首がやや傾いていたと描かれる。首の傾きはアレクサンドロス大王にも見られた特徴で、彫刻家リュシッポスがそれを写して以来、大王の友人や後継者たちに好んでまねられたという。生活は簡素で禁欲的、いつも擦り切れた外套一枚で過ごし、群衆を避けて口数は少なかったが、必要なときは愛想のよい人でもあったという。展開した思想は資料が断片的にしか残らず、総合的な理解は難しい。それでも、哲学を自然学、論理学、倫理学に三分したことと、快や不快に心を奪われないことで心の平穏が得られるという、ストア派倫理学の基本軸を立てたことは、彼に起源を見るのが妥当だと考えられている。彼の体系は、プラトンの後継者のうち自然主義的な説を、キュニコス派の知恵の理論と結びつけ、唯物論的で一元論的、決定論的な体系の土台を築いたとされ、その影響は大きかった。
伝えられる最期は次のとおりである。ある日、学園から帰る途中で転んでつま先の骨を折った。ストア派の思想に従い、高齢の自分にはもう死ぬのが適当だと考え、「いま行くところだ。どうして私を呼びたてるのか」と言って、自ら息を止めて死んだという。
同じ年に亡くなった人物
- フィレタイロス (紀元前263年没)
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