伝記
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージは、イタリアのナポリ楽派の作曲家である。1710年1月4日にイェージで生まれ、1736年3月、26歳の若さでポッツオーリに没した。没日は16日とも17日とも伝えられる。ヴァイオリン奏者でありオルガン奏者でもあった。モーツァルトやロッシーニらに受け継がれるオペラ・ブッファの基礎を築き、短い生涯でありながら、古典派音楽の様式をいち早く示した人物として音楽史に名を残した。
生まれたときの姓はドラーギで、祖父クルチャーノは靴職人で、ペルゴラ出身の親方の子であった。1663年にイェージの女性と結婚し、一家はその地名にちなんでペルゴレージと呼ばれるようになった。もっとも、年長の兄と姉は洗礼台帳にドラーギの名で記されている。父フランチェスコ・アンドレアは信心会の財産を管理する仕事に就いており、そのおかげで裕福ではないにせよ恵まれた少年時代を送り、基礎的な音楽教育を受けた。しかし両親を早くに失い、母を1727年に、父を1732年5月27日に亡くしている。兄弟姉妹も幼いうちに何人かが世を去り、本人も子供のころから病弱だったようだ。故郷でオルガンとヴァイオリンを学んで才能を現し、15歳のころ、侯爵ピアネッティの後援でナポリの音楽院に入った。ここでフランチェスコ・ドゥランテ、レオナルド・ヴィンチ、ガエターノ・グレーコといった名高い作曲家から作曲を学んだ。才能のおかげで学費は免除され、音楽院の演奏会で合唱の少年から始まり、ヴァイオリン奏者となって、1729年には楽団の首席格に任じられた。
1731年に卒業し、卒業作品として聖劇『アキテーヌ公ギヨームの回心』を書いた。同じ年に最初のオペラ『サルスティア』を書いたが、主役の歌手の急死のために上演が1732年1月にずれ込み、評判もよくなかった。その後、スティリアーノ公の楽長に迎えられた。1732年にはオペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を上演して最初の成功をおさめた。1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演した。この作品は失敗に終わったが、幕間劇として作曲された『奥様女中』が歴史的な大成功となり、オペラの歴史に大きな変革をもたらした。のちにフランスのブフォン論争では、新しいイタリアのオペラ・ブッファの手本として支持者に掲げられた。1734年にはナポリの楽長に就任した。
1735年にはローマで『オリンピアーデ』を初演したが、失敗してナポリに戻った。このころから結核で体調が悪化し、宗教音楽の作曲に取り組むようになった。1736年、ナポリ近郊のポッツオーリにある聖フランチェスコ修道院に療養に移った。ナポリの貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団」の委嘱を受けた『スターバト・マーテル』を、余力を振り絞って書き上げてまもなく世を去った。
生前の成功は限られていたが、死後に人気が上がり、偽作が大量に出回った。混乱は1939年から42年の全集にまで及び、『ニューグローヴ世界音楽大事典』第2版によれば、全集に載せる148曲のうち、確実な作品は30曲だけである。20世紀前半には、ストラヴィンスキーが彼の作品から数曲を選んで手を加え、バレエ音楽『プルチネルラ』とした。
同じ年に亡くなった人物
- ガブリエル・ファーレンハイト (1736年没)
- ヨハン・アルベルト・ファブリキウス (1736年)
- オイゲン・フォン・ザヴォイエン (1736年没)
- ルイーズ・ディアーヌ・ドルレアン (1736年没)
- Antonio Manoel de Vilhena (1736年)
同じ地域に関係する人物
- ロレンツォ・ロット (1556年没)
- フェデリコ・ツッカリ (1609年没)
- プブリウス・デキウス・ムス (紀元前312年の執政官) (紀元前295年没)
- ミケーレ・スカルポーニ (2017年没)
- ルキウス・コルネリウス・キンナ (紀元前84年没)