伝記
プブリウス・デキウス・ムスは、共和政ローマの紀元前4世紀後半から紀元前3世紀初頭にかけての政治家・将軍である。生年は不詳で、紀元前295年に没した。デキウス家は戦場で自らを神々に捧げる「デウォティオ」で知られ、第一次サムニウム戦争で活躍した同名の父は紀元前340年の執政官であり、のちに同名の子も紀元前279年の執政官となってエピロス王ピュロスと戦った。本人は執政官を四度、監察官を一度務めた。
最初の執政官職は紀元前312年で、同僚はマルクス・ウァレリウス・マクシムス・コッリヌスであった。第二次サムニウム戦争のさなかであったが、デキウスは病気のためローマに残り、同僚が戦争を指揮したとされる。エトルリア人との戦争への不安から、元老院の希望で独裁官を指名する役もデキウスが担ったという。一方、アウレリウス・ウィクトルは、デキウスがサムニウム人に勝って凱旋式を挙げ、戦利品をケレース神に奉納したと伝える。ただし凱旋式の記録では、この年に凱旋したのは同僚のウァレリウスである。紀元前310年には独裁官ルキウス・パピリウス・クルソルの下で副官を務め、紀元前308年に再び執政官となった。このときは同僚のクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスがサムニウム人を、デキウスがエトルリア人を担当した。デキウスはエトルリアを荒らし、タルクィニアに食糧を出させて休戦を受け入れさせ、ウォルシニイの砦をいくつか奪い、エトルリア人にその年のローマ兵の給与を負担させたともいわれる。この年のエトルリアとの休戦については、デキウスは1年の休戦に反対したとも伝えられる。
紀元前306年には独裁官スキピオ・バルバトゥスの下で騎兵長官を務め、紀元前304年にはファビウスとともに監察官となった。このとき解放奴隷を市内の4つの選挙区だけに登録しなおしたとされる。紀元前300年には神官職を平民にも開くオグルニウス法を支持し、アッピウス・クラウディウス・カエクスと争った。デキウスは、神祇官に加わった最初の平民の一人となった。キケロは、この時代の平民の有力者であるファブリキウス、クリウス・デンタトゥス、初の平民出身の最高神祇官コルンカニウスとデキウスとの親交を伝えている。
紀元前297年、デキウスは三度目の執政官となり、同僚はふたたびファビウスであった。二人は第三次サムニウム戦争を戦い、別々の道からサムニウムへ進んだ。デキウスの軍はマレウェントゥム近くでアプリア人の軍を破った。翌紀元前296年にはプロコンスルとしてサムニウムで戦い続け、ムルガンティア、ロムレア、フェレンティヌムなどの都市を落として大きな戦利品を得たとされる。
紀元前295年、デキウスは四度目の執政官となり、ファビウスとまた同僚になった。ローマはガリア人、サムニウム人、ウンブリア人、エトルリア人による反ローマの共同戦線の脅威を受けていた。二人はエトルリアでの作戦のやり方をめぐって意見が合わず、元老院と民会に諮ったうえで指揮はファビウスに委ねられたという。やがて両軍が合流し、センティヌムの戦いでデキウスは左翼を指揮した。ガリア人の攻撃で部隊が崩れはじめると、父の例にならって自らと敵を冥府の神々に捧げる誓いを唱え、敵中へ突入して死んだ。戦いはローマ側の勝利に終わり、ファビウスは凱旋式を挙げた。遺体は壮麗な葬儀を受けた。この有名な逸話のため、同じ行為が父や子にも帰されるようになったと考えられている。
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