HISTORICAL PERSON · 1736年没

オイゲン・フォン・ザヴォイエン

フランス生まれでオーストリアに仕えた軍人・政治家。プリンツ・オイゲンの名で知られ、スペイン継承戦争のブレンハイムの戦いや墺土戦争などで戦った。

生涯
1736年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

オイゲン・フォン・ザヴォイエンは、1663年10月16日にパリで生まれ、1736年4月24日に没した、オーストリアに仕えた軍人・政治家である。「プリンツ・オイゲン」の呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号で呼ばれた。この「プリンツ」は公爵や大公の意味ではなく、日本語には正確に表せる訳語がないとされる。

父はソワソン伯ウジェーヌ・モーリス、母はオランプ・マンシーニで、一説には実父はルイ14世であったともいう。祖父はサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の末子で、サヴォイア=カリニャーノ家を興したトンマーゾ・フランチェスコである。母方の大伯父には宰相マザランがいた。長男ではなかったため伯位は兄が継ぎ、軍人の道を選んだが、ルイ14世のフランス軍では用いられなかった。そこで1683年にオーストリアへ渡り、フランス王の宿敵である神聖ローマ皇帝レオポルト1世に仕えた。軍人が所属を移るのは珍しくない時代だったが、オイゲンは生涯をフランスとの戦いに費やすことになる。

オーストリアでの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まる大トルコ戦争から始まった。ロレーヌ公シャルル5世に従ってハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を立てた。大同盟戦争ではイタリア戦線で目立った功績はなかったものの、1693年に元帥となった。1697年にはザクセン選帝侯に代わってトルコ戦線の指揮を任され、ティサ川を渡るオスマン軍を奇襲して、約3万人を溺死させる大勝利を収めた。これがゼンタの戦いで、1699年のカルロヴィッツ条約でオーストリアはハンガリー全土を得た。

1701年にスペイン継承戦争が始まると、北イタリア戦線の司令官としてフランス軍と戦い、カルピとキアーリで勝ち、翌年にはクレモナで敵将ヴィルロワを捕らえた。1703年に軍事委員会総裁に任じられると、1704年にはイングランドの司令官マールバラ公とともにブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍を破り、戦争の流れを反フランス同盟側に傾けた。1705年にカッサーノでヴァンドームに敗れたが、1706年9月7日にはサヴォイア公とともにトリノを包囲していたフランス軍を破り、ミラノ総督となった。翌年にはイタリアからフランス軍を駆逐している。1708年にはマールバラ公と再び組み、アウデナールデの戦いに勝ってリールを攻略した。1709年のマルプラケの戦いは勝利したが、被害は甚大で、オイゲン自身も負傷した。1713年から14年にかけてはヴィラールと交渉し、ラシュタット条約の締結に尽力した。

1716年に墺土戦争が起こると、ペーターヴァルダインの戦いとベオグラード包囲戦で連勝し、1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国に全ハンガリーの割譲を認めさせた。ネーデルラント総督やイタリアの副王にも任じられた。1733年のポーランド継承戦争にも従軍したが、病気で活躍できなかった。晩年にはマリア・テレジアの結婚相手としてバイエルンやプロイセンの王太子を推したが、結局ロレーヌ公フランツ・シュテファンに決まり、オイゲンは二人の結婚式を口実をつけて欠席した。ウィーンで72歳で没し、遺骸はシュテファン大聖堂に葬られた。子はなく、ベルヴェデーレ宮殿をはじめとする莫大な財産はハプスブルク家のものとなった。

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