伝記
モーセス・ホレナツィ(ホレンのモヴセス)は、古代末期のアルメニアの歴史家であり、『アルメニア人の歴史』の著者である。410年から490年代に生きたとされ、アルメニア語では「アルメニア史の父」と呼ばれ、「アルメニアのヘロドトス」とも称される。生涯についての手がかりは、自著に記された自伝的な記述と、後代のアルメニアの著述家が伝える話に限られる。後者は、研究者ステパン・マルハシャンツによれば信頼できないという。「ホレナツィ」という呼び名はホレンまたはホレアンという土地の出身を示すと考えられ、生地についてはタロンのホルニ村とする古い説がある。一方マルハシャンツは、シュニク地方ハバンド地区のホレアイ村を生地として提案した。タロン出身の者と呼ぶ文献もあるが、それならホルニ出身の呼称になるはずだと彼は反論している。
本人は、アルメニア文字の創案者メスロプ・マシュトツの若い弟子だと名乗った。5世紀という自称を受け入れるマルハシャンツは、生年を410年ごろと見積もる。シュニクの学校で初等の教育を受け、のちにヴァガルシャパトでマシュトツと総主教サハク・パルテヴのもとで学んだというのである。431年のエフェソス公会議の後、二人が聖書を原典のギリシア語に照らして直す作業を進めていたとき、モヴセスら数人の弟子を当時屈指の学問の中心だったエジプトのアレクサンドリアへ送り出した。出発は432年から435年の間とされ、一行はまずエデッサの図書館で学び、エルサレムを経てアレクサンドリアに向かった。七年の遊学を終えて帰国すると、マシュトツとサハクはすでに世を去っていた。モヴセスはその悲しみを『アルメニア人の歴史』の巻末の哀歌に託している。帰国後のアルメニアは敵意に満ち、学生たちは現地の人々から蔑まれた。後代のアルメニアの歴史家はこれを民衆の無知のせいにしたが、ギリシアの学問を修めた若い学者たちを容れなかったササン朝ペルシアの政策や思想も一因だったという。迫害を受けたモヴセスは、ヴァガルシャパト近くの村に身を隠し、数十年にわたって人目を避けて暮らした。
ある日、461年から471年に全アルメニア総主教を務めたギュトが、この地を通りかかった。ギュトは相手が誰かを知らぬまま、弟子たちとの夕食に招いた。はじめ黙っていたモヴセスは、弟子たちに促されて見事な話をした。弟子の一人が、総主教の探していた人物だと気づき、ギュトがかつての同門の友だと分かった。ギュトは友を隠遁から連れ出し、バグレヴァンの司教に任じた。司教となった彼のもとへ、評判を聞いたバグラトゥニ家のサハク公(482年、チャルマナの戦いでペルシア軍と戦って死んだ)が訪れ、アルメニアの歴史、とくに諸王の伝記とナハラル諸家の起源を書くよう求めた。こうして書かれた『アルメニア人の歴史』は、アルメニア初の通史の試みであり、初期アルメニア史を一通り述べた唯一の書として今も残る。起源から5世紀までを扱い、後世の中世アルメニアの著述家に広く引用された。キリスト教改宗以前の古い口承伝承を伝える点でも貴重とされる。写本は約20点が現存し、多くは13世紀と14世紀のものである。
ただし彼が生きて書いた時代については、19世紀以来、学者のあいだで議論が続いている。5世紀ではなく7世紀から9世紀に位置づける学者もいる。彼はアルメニア使徒教会によって、聖なる翻訳者たちの一人として認められている。
同じ年に亡くなった人物
- 登塔者ダニエル (490年)
- アレクサンドリアのテオドラ (490年)
- Pope Peter III of Alexandria (490年没)
- ウィタのウィクトル (490年没)
同じ地域に関係する人物
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- ティグラネス3世 (紀元前100)