HISTORICAL PERSON · 455年没

ウァレンティニアヌス3世

わずか6歳で西ローマ皇帝となり、政治は母后ガッラ・プラキディアやアエティウスが握った。治世にアフリカやブリタンニアを失って帝国の解体が進み、454年にアエティウスを自ら殺害したが、翌年に暗殺された。

生涯
455年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ラヴェンナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ウァレンティニアヌス3世は、419年7月2日に西ローマ帝国の宮廷所在地ラヴェンナで生まれた皇帝である。ラヴェンナは402年以来、西方の主要な皇帝の居所であった。父は将軍のコンスタンティウス3世で、411年から416年にかけて複数の簒奪者を倒し、418年には西ゴート族を同盟民として南ガリアに定住させた人物である。母はテオドシウス1世の娘ガッラ・プラキディアで、両親のあいだの唯一の皇太子であった。父はホノリウス帝から共同皇帝に任じられたが、まもなく没した。その後、母はホノリウスと不和になり、娘のホノリアとともに東ローマ帝国のコンスタンティノポリスへ出奔して、甥にあたるテオドシウス2世のもとに身を寄せた。

423年にホノリウスが没すると、西方では帝国官僚の長であったヨハンネスが皇帝に選ばれた。東ローマのテオドシウス2世はこれを認めず、従弟にあたる幼いウァレンティニアヌスを立てようと図った。424年10月に副帝へ昇格させ、娘のリキニア・エウドクシアとの婚約も定めたと伝えられる。ヨハンネスはフン族の軍を頼んで対抗したが、東方の軍と将軍アスパルに敗れて捕らえられ、処刑された。425年10月、ウァレンティニアヌスはわずか6歳で西方の正帝に据えられた。

幼帝の時代、国政を握ったのは母プラキディアであった。当初は将軍フェリクスを軍の最高指揮官に任じて属州の安定に努め、フン族はイタリアから退いてパンノニアの一部も返還された。皇帝の名で426年には、いわゆる引用法が西方で出された。だが将軍たちの権力争いは続き、433年以降は蛮族出身の将軍アエティウスが実権を握った。437年に皇帝はエウドクシアと結婚した。治世の前半には西ゴート族やライン川流域のフランク族に対する勝利が重ねられたが、439年にはヴァンダル族がカルタゴを含むアフリカ州を征服し、シチリア島や西地中海沿岸もヴァンダル王ガイセリックの艦隊に荒らされた。446年にはブリタンニアが最終的に放棄され、イスパニアとガリアの大部分も蛮族の割拠にまかされた。税収の柱であった属州を失うなかで、皇帝は多くの法を出して財政を保とうとしたが、税負担は重くなり、残った属州の忠誠心も衰えていったとされる。宗教面では異教徒や非ニカイア派の信徒との対立を続け、ローマ司教の首位を認めて教会に関する法にほぼ公式の地位を与えた。

451年、アエティウスは西ゴート族などと連合してフン族の王アッティラをカタラウヌムの戦場で破った。しかしアッティラはその後イタリア北部を荒らし回り、皇帝はローマへ逃れた。アッティラは453年に急死した。同年、アエティウスは自分の息子ガウデンティウスと皇帝の娘プラキディアの婚約を強引にまとめた。これに不信を抱いた皇帝は、454年にアエティウスを自らの手で殺害した。ある元老院議員は、陛下が左手で右手を切り落としたことは知っていると述べたと伝わる。

455年3月16日、ウァレンティニアヌスはアエティウスに仕えていた蛮族出身の者たちに暗殺された。場所はローマのラテラノの聖ヨハネ教会前の広場で、居合わせた人々は誰も皇帝を助けようとしなかったという。35歳であった。史料は怠惰で無責任、放縦な性格の皇帝と評し、母が450年に没してからは帝国の憎悪が一身に向かったともいわれる。それでも在位は約30年に及び、先帝ホノリウスと並ぶ長さであった。

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