HISTORICAL PERSON · 2021年没

ハンク・アーロン

アメリカの元プロ野球選手で外野手。通算755本塁打はベーブ・ルースを超え、33年間メジャーリーグ歴代1位だった。愛称はハマー。

生涯
2021年没
死亡地
アメリカ合衆国(ジョージア州 / アトランタ)
出生地
アメリカ合衆国(モービル)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ジョージア州)

伝記

ハンク・アーロン(ヘンリー・ルイス・アーロン)は、1934年2月5日にアメリカ合衆国アラバマ州モービルで生まれた元プロ野球選手で、外野手として活躍した。愛称は「ハマー」。子供のころは近くに野球チームがなく、ソーダの栓やぼろ布、ブリキの蓋を道具にして野球のまねごとをしていた。ジャッキー・ロビンソンのいたブルックリン・ドジャースが二軍との試合のためモービルを訪れたとき、幼いアーロンは野球や人生についての話に耳を傾けたという。弟のトミー・アーロンも後にメジャーリーガーとなった。

エド・スコットの仲介でニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入団し、最初は遊撃手として力をつけた。やがてボストン・ブレーブスのスカウトの目にとまって契約し、傘下のチームで活躍してノーザンリーグの新人王となった。この時期に、少年時代からの癖だったバットのクロスハンドの握りも改めている。ミルウォーキーに移ったブレーブスの2年目、左翼手のレギュラーと目されていたボビー・トムソンが春季キャンプで足首を骨折した。翌日の試合で代わりに先発したアーロンは本塁打を放ち、これをきっかけにメジャー契約を勝ち取った。

フレッド・ヘイニー監督のもと、ミルウォーキー・ブレーブスは「ミルウォーキーの奇跡」と呼ばれる優勝を成し遂げた。9月23日のカージナルス戦では延長11回裏にサヨナラ2点本塁打を放ってリーグ優勝を決め、シーズンは本塁打と打点の二冠王、シーズンMVPとなった。同年のワールドシリーズでは強豪ニューヨーク・ヤンキースと七戦までもつれ、アーロンは3本塁打、7打点、打率3割9分3厘と活躍し、チームは4勝3敗で世界一となった。これが彼の唯一のワールドチャンピオンである。

ブレーブスがアトランタに移った後、アーロンは実績のわりに注目されなかったが、1970年代に入りウィリー・メイズの本塁打数を抜いたころから脚光を浴びた。ベーブ・ルースの記録に1本と迫ったシーズンのオフには、黒人が白人のルースの記録を破ることに反感を抱く者からの嫌がらせや脅迫が相次いだ。しかしそれが明るみに出ると、全米から激励の手紙が届いた。「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。ただ、私を覚えてもらいたいのです」と語っている。翌年4月4日に714号でルースに並び、4月8日にアトランタでアル・ダウニング投手から715号を放って記録を破った。「すべてが終わりました。神様に感謝します」とコメントした。

同年秋には日米野球で来日し、王貞治と本塁打競争をして10対9で勝った。王が後に自身の記録を抜いたときも、心から祝福したという。1955年にニューヨークのポロ・グラウンズの二階席の外壁まで打球を飛ばし、地元の新聞が「ハマリング・ハンク」と評した。本塁打だけの打者ではなく、1963年には30本塁打30盗塁を達成し、打率も3割を記録した。20年連続で100安打以上も記録している。背番号は入団当初は5だったが、2桁を望んで44となり、「ベルが鳴っているような響きがあって好き」と語った。その後ミルウォーキー・ブルワーズに移り、2年で現役を退いた。通算では755本塁打、3771安打を記録した。背番号44は両球団で永久欠番となり、野手として初めてMLBの2球団で永久欠番となった。引退後はブレーブスの球団副会長などを務め、王と世界少年野球大会を提唱するなど野球の普及に努めた。日本からは旭日小綬章を受けている。2021年1月5日に新型コロナウイルスのワクチンを接種し、同月22日に86歳で亡くなった。死因は自然死と発表された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物