伝記
ジョン・スティス・ペンバートンは、1831年7月8日にジョージア州ノックスヴィルで生まれ、1888年8月16日に没したアメリカ合衆国の薬剤師・化学者で、南北戦争では南軍の将校だった。コカ・コーラの発明者として有名だが、存命中は薬用目的でしか飲まれなかった。幼少期の大半はジョージア州ローマで過ごした。両親はジェームズ・ペンバートンとマーサ・ガントである。マコンのジョージア改革派医科大学に入り、1850年、19歳で医学の学位を得た。主な才能は化学にあり、少し医療や外科を行ったのち、コロンバスで薬局を開いた。1853年にコロンバスで、ウェズリアン大学の学生だったアン・エライザ・クリフォード・ルイスと結婚し、1854年に一人息子のチャールズが生まれた。
南北戦争では、ジョージア州防衛軍の第3騎兵大隊で中佐の階級に達した。1865年4月、コロンバスの戦いで胸にサーベルの傷を負い、その痛みを和らげるために用いたモルヒネの中毒になった。1866年から、中毒を治すため、モルヒネに代わる鎮痛剤を探し始めた。最初の処方は「タグル博士のグローブフラワーの複方シロップ」で、有効成分は有毒な植物から取った。次いでコカやコカ入りワインの研究を進め、コーラの実のエキスとダミアナを加えた「ペンバートンのフランス風ワイン・コカ」を作り上げた。戦後の南部では、退役軍人の薬物中毒、うつ病、アルコール依存症が広がり、南部の女性は神経衰弱に悩んでいた。このため彼の薬用酒は、女性や、デスクワークで神経が疲れた人々に特に効くとして宣伝された。
1886年、アトランタとフルトン郡で禁酒の法律が施行されると、ワイン・コカに代わるアルコールを含まない飲み物が必要になった。アトランタの薬局の主人ウィリス・ヴェナブルの協力を得て、試行錯誤で処方を作り上げた。ペンバートンは、基になるシロップを誤って炭酸水と混ぜたことから、これを薬ではなく、ソーダ水売り場の飲み物として売ることにしたと伝えられる。名前は、フランク・ロビンソンが、響きのよさから「コカ・コーラ」と名づけた。この名は二つの主要な原料を示すが、コカインを連想させるとの議論が起こり、のちに会社は、この名に意味はなく空想的な名前だと説明した。ロビンソンは、ボトルや広告の筆記体の文字も手書きした。ペンバートンは、頭痛を治し、疲れを取り除き、神経を落ち着かせる「貴重な頭脳の強壮剤」として、「おいしく、さわやかで、爽快な」飲み物と宣伝した。
発売後まもなく、ペンバートンは病に倒れて破産寸前になった。高額なモルヒネの中毒も続いており、事業仲間に処方の権利を売り始めたが、「いつか全国的な飲み物になる」と予感して、息子に残すために持ち分の一部を手元に残そうとした。しかし息子が金を望んだため、1888年にペンバートンは息子とともに、残りの権利をアトランタの薬剤師アサ・キャンドラーに売却した。同年8月16日、胃癌のため57歳で死去した。亡くなったとき貧しく、モルヒネへの依存は深まっていた。遺体はコロンバスに戻されてリンウッド墓地に葬られ、墓碑には、南軍での軍歴とフリーメイソンの会員であることを示す印が刻まれている。息子チャールズは父の処方を売り続けたが、6年後にアヘン中毒で亡くなった。
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