HISTORICAL PERSON · 2021年没

カロロス・パプーリアス

ギリシャの政治家。2005年3月から2015年3月まで10年間大統領を務めた。軍事政権時代には亡命先から民主化活動を行った。

生涯
2021年没
死亡地
ギリシャ共和国(アッティキ / アテネ)
出生地
ギリシャ共和国(ヨアニナ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(アッティキ)

伝記

カロロス・パプーリアスは、1929年6月4日にヤニナ地方で生まれ、2021年12月26日に92歳で没したギリシャの政治家である。2005年3月から2015年3月までの10年間、ギリシャ共和国の大統領を務めた。日本の報道ではパプリアスと表記されることが多い。

生まれたのはヤニナ県のモリブドスケパストス村で、父は陸軍少将のグレゴリオス・パプーリアスだった。ポゴニアニの小学校に通い、ヤニナのゾシマイア校やアテネのパレオ・ファリロ地区とパンクラティ地区の中等学校でも学んだ。1941年4月にドイツ軍がギリシャに侵攻した時はポゴニアニで勉強しており、ドイツ軍に対する武装抵抗運動に加わった。若いころは左派の青年組織でも活動した。学業ではアテネ大学で法学の学位を、ミラノ大学で国際公法と国際関係論の修士号を、ケルン大学で国際私法の博士号を得た。ギリシャ語のほか、ドイツ語、イタリア語、フランス語を話せたという。スポーツにも秀で、かつては棒高跳びの全国王者でバレーボールの代表選手でもあった。

1967年の軍事クーデターの時は西ドイツにいた。軍事政権に対抗するため、在外民主社会主義同盟を率いて、欧州のギリシャ人労働者や学生、科学者の動員にあたった。抵抗運動として最初の労働組合組織を設立し、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレとも協力した。軍事政権時代には亡命先から民主化活動を続けたのである。その後は全ギリシャ社会主義運動(パソク)の創設メンバーとなり、指導者アンドレアス・パパンドレウの側近として、1974年12月以降は中央委員会の委員に選ばれ続けた。1975年4月から1985年までは国際関係委員会の書記も務めた。

1977年にヤニナ選挙区から国会議員に初当選し、2004年に大統領に選ばれるまで議席を守り続けた。パパンドレウ政権では1981年から外務副大臣を務め、1985年7月から1989年7月まで、さらに1993年10月から1996年1月まで外務大臣を務めた。1989年から1990年にかけては、国防副大臣も務めている。外相としては、1983年にレバノンで包囲されたパレスチナの武装勢力とアラファトを、ギリシャの船で安全に退去させる仲介をした。アラブ世界との外交関係を築き、エジプトとの関係正常化も実現させた。トルコとは延べ12人の外相と協議を重ね、1988年にはパプーリアス・ユルマズ覚書の署名に至った。1993年から1996年の任期では、エッセン首脳会議で、キプロス共和国と欧州連合との加盟交渉開始に重要な役割を果たした。旧ユーゴスラビア問題では、欧州連合の議長国の立場やコンタクト・グループの一員として、ボスニア・ヘルツェゴビナの危機の解決に努めた。バルカン諸国との関係にも関心が深く、1988年にはベオグラードで初のバルカン諸国外相会議が開かれた。ブルガリアとは軍事・民生の相互援助議定書に署名し、アルバニアとの戦争状態を終わらせて友好的な関係を回復した。

1985年からは全国スポーツ協会の会長も務めた。妻との間には3人の娘がいる。2004年12月12日、新民主主義党のカラマンリス首相とパソク党首のゲオルギオス・パパンドレウが、パプーリアスを大統領候補に指名した。翌2005年2月8日に議会の圧倒的多数の賛成を得て選出され、同年3月12日に大統領に就任した。2015年3月13日に退任し、2021年12月26日に死去した。

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