HISTORICAL PERSON · 1964年没

フラナリー・オコナー

米国ジョージア州出身の作家。父を難病で失い、自らも同じ病と診断されながら創作に打ち込んだ。若い頃は画家を志していた。

生涯
1964年没
死亡地
アメリカ合衆国(ジョージア州 / ミレッジヴィル)
出生地
アメリカ合衆国(サヴァンナ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ジョージア州)

伝記

フラナリー・オコナーは、1925年3月25日にアメリカ合衆国ジョージア州サバンナで生まれた作家である。不動産業を営む父エドワードと母レジーナのひとり娘で、両親ともアイルランド系だった。後年、自分を「内股で、顎が引っ込み、放っておかないと噛みつく」子どもだったと振り返っている。11歳の頃から絵を描き始め、同時に文章も書き始めて、大学生のころまでは画家を志していた。1940年に一家はミレッジヴィルに移り、当初は母方の親族の家で暮らした。父は難病の全身性エリテマトーデスで、1941年2月に亡くなり、以後は母との二人暮らしとなった。高校では新聞の美術担当編集者を務め、ジョージア州立女子大学(現在のジョージア・カレッジ)に進んで、1945年に社会学と英文学の学士号を得た。在学中は学生新聞に多くの風刺漫画を描いており、その独特の画風が後の小説に影響したと指摘する批評家もいる。

1945年にアイオワ大学の創作科に入り、最初はジャーナリズムを学ぶつもりだった。ここでロバート・ペン・ウォーレンやジョン・クロウ・ランサム、アンドルー・ライトルらと知り合い、ライトルは最も早くからその作品を認めた人のひとりで、雑誌に作品や評論を掲載した。風刺画を雑誌に投稿してもいずれも断られたが、1946年に短篇「ゼラニウム」が雑誌に載ると、創作に集中するようになった。「メアリー」という名が「アイルランドの洗濯女のようだ」と感じて、名をフラナリーだけにしたのもこの頃である。1947年に修士号を得て、1948年夏にはニューヨーク州のヤドーで長篇を書き進めた。1949年、詩人で古典の翻訳家ロバート・フィッツジェラルドとその妻サリーと知り合い、コネティカット州の夫妻の家に同居して執筆に打ち込んだ。しかし1950年末に高熱を出して入院し、はじめリューマチ性関節炎と診断されたが、父と同じ紅斑性狼瘡にかかっていることが分かった。

以後はミレッジヴィル郊外の農場で、酪農を営む母に看護されながら創作と治療を続けた。自宅には孔雀を飼い、インタビューや講演の依頼にも応じた。二つの長篇『賢い血』(1952年)と『烈しく攻むる者はこれを奪う』(1960年)、短篇集『善人はなかなかいない』(1955年)を著した。アメリカ南部を舞台とし、南部ゴシックに分類される作品を書き、短篇の名手として知られる。小説を支えるものとして秘義と習俗の感覚を挙げ、習俗を通して人間の存在にある秘義を具体的に表すのが小説のつとめだとした。濃密な風習や南部の方言の多様さを利点としつつ、自分は南部についてではなく、普遍的な問題を書いていると語っている。よく描く題材は、人間の不完全さや暴力だった。「私の物語はすべて、恩寵が、それを受け入れたがらない人物に働きかける行為についてのものだ」という趣旨の言葉も残している。

カトリックの信仰が作品に反映され、司祭テイヤール・ド・シャルダンの思想に共鳴して、短篇『すべて上昇するものは一点に集まる』の題名をその発想に基づいて付けた。哲学者ジャック・マリタンの影響も受け、芸術家であることとキリスト教徒であることに断絶があってはならないという考えは、生涯の課題となった。1956年から亡くなるまで、ジョージア州のカトリック教区の新聞に書評を百本以上書いた。1964年8月3日に亡くなった。没後に刊行された『全短篇』は1972年に全米図書賞を受け、日本では大江健三郎がしばしばオコナーに言及している。

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