HISTORICAL PERSON · 1694年没

松尾芭蕉

江戸時代前期の俳諧師で、伊賀国出身。滑稽を主とした俳諧を芸術性の高い蕉風として確立し、俳聖として世界的に知られる。弟子の河合曾良を伴い東北・北陸を巡った紀行文『おくのほそ道』が特に有名。

生涯
1694年没
死亡地
日本(大阪府 / 御堂筋)
出生地
日本(芭蕉翁生家)
出典
世界地図
日本(大阪府)

伝記

松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)に伊賀国阿拝郡で生まれ、元禄7年10月12日(1694年11月28日)に没した江戸時代前期の俳諧師である。滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風として確立し、俳聖として世界的にも知られる。幼名は金作、のち宗房と名乗り、俳号は宗房、桃青、芭蕉と改めた。

生家は柘植郷の土豪の流れをくむ松尾与左衛門の家で、芭蕉はその次男である。苗字と帯刀は許されていたが身分は農民だったという。出生の月日は伝わらず、上野城下の赤坂町か上柘植村かで説が分かれる。13歳のとき父が亡くなり、兄が家督を継いだが、暮らしは苦しかったと考えられている。寛文2年(1662年)ごろ、伊賀上野の侍大将藤堂家の嗣子良忠(俳号は蝉吟)に仕え、厨房の役を務めたようである。2歳年上の良忠とともに京都の北村季吟に師事して俳諧の道に入った。寛文4年(1664年)には撰集に「松尾宗房」の名で初めて句が入った。しかし寛文6年に良忠が亡くなり、宗房は遺髪を高野山に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮に奉納した。30番の発句合で、談林派の先駆けのような軽快な調子と奔放さを持つ。延宝2年(1674年)に季吟から俳諧作法書『俳諧埋木』を伝授され、これを機に江戸へ向かった。

延宝3年(1675年)に江戸へ下った宗房は、のちに終生の援助者となる杉山杉風らの俳人と交わり、西山宗因を迎えた百韻の興行に加わった際、初めて桃青の号を用いた。宗因の談林派俳諧から大きな影響を受けたという。延宝5年(1677年)には神田川の分水工事で人足の帳簿づけに携わり、この年か翌年には宗匠となって職業的な俳諧師になったとされる。ところが延宝8年(1680年)、突然深川に居を移した。点者としての暮らしに飽いたとも、火事で日本橋の家を焼け出されたとも、談林の諧謔に限界を見たともいわれる。天和3年(1683年)刊の『むさしぶり』で初めて号「芭蕉」が使われた。これは門人の李下から贈られた芭蕉の株が茂ったことにちなみ、庵も芭蕉庵と呼ばれた。天和2年の大火で庵を焼失し、甲斐の谷村に身を寄せたが、翌年には江戸へ戻った。この出来事は、棲家を持つことの儚さを芭蕉に教えたとされる。

貞享元年(1684年)8月、『野ざらし紀行』の旅に出た。美濃国大垣の木因に招かれたのが発端で、前年に亡くなった母の墓参のため伊賀にも向かった。名古屋で詠んだ歌仙は『冬の日』にまとめられ、「芭蕉七部集」の第一とされる。貞享3年(1686年)春の芭蕉庵の蛙の発句会では、蛙の「飛ぶ」ところに着目して静寂を引き立てる句を詠み、蕉風を象徴する作品となった。その後、『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』の旅を重ねた。

元禄2年(1689年)3月27日、西行の500回忌に当たる年に、弟子の曾良を伴って『おくのほそ道』の旅に出た。西行や能因ゆかりの歌枕を訪ねる旅で、約5か月、600里(約2,400キロ)を巡って大垣に着き、各地で多くの門人を得た。歌枕の地に実際に触れたことが、「不易流行」の考え方の基礎になったと考えられる。元禄4年(1691年)には向井去来、野沢凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み、7月に刊行された。元禄7年4月には、何度も推敲を重ねた『おくのほそ道』を清書に回した。同年5月に江戸を発って伊賀上野へ向かい、湖南や京都を回って、旧暦10月12日に世を去った。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物