HISTORICAL PERSON · 2020年没

アラン・パーカー

イングランドの映画監督。『ミッドナイト・エクスプレス』でアカデミー監督賞にノミネートされ、『フェーム』で興行的成功を収め、『バーディー』でカンヌ国際映画祭の審査員特別グランプリを受けた。

生涯
2020年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(イズリントン)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

アラン・パーカーは、1944年2月14日にイングランドで生まれ、2020年7月31日に76歳で没した映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。ロンドン北部のイズリントンの労働者階級の家庭に生まれ、父は家の塗装工、母は仕立て屋だった。公営住宅団地で育ち、家族に映画界を志す者はおらず、映画に最も近いものといえば叔父たちの影響で始めた写真の趣味だったと本人は語っている。

デイム・アリス・オーウェン校で学び、最終学年は理科に集中したが、18歳で学校を離れて広告の世界に入った。理由は、広告業界が女の子と知り合うのによい場になるかもしれないと考えたからだという。最初の仕事は広告代理店オグルヴィ・アンド・メイザーの郵便室の雑用係で、書くことを望んで帰宅後に文章や広告文を書き続け、同僚にも励まされてコピーライターになった。いくつかの代理店を渡り歩くうち、コレット・ディケンソン・ピアースで、のちに自作の多くを手がけるプロデューサーとなるデヴィッド・パットナムとアラン・マーシャルに出会った。1968年までにはコピーライターからテレビ広告の監督へ転じ、1970年にはマーシャルと広告制作会社を設立した。この会社は英国屈指の制作会社に成長し、数々の賞を受けた。パーカーは、広告の仕事に費やした年月が後の映画監督としての成功につながったと考えていた。

パットナムに勧められて初めて書いた映画脚本が、1971年の『小さな恋のメロディ』である。1972年には自ら脚本を書いた初の劇映画「ノー・ハード・フィーリングス」を、自己資金と自宅を抵当に入れた資金で撮った。ロンドン大空襲を背景にした恋愛物語で、パーカー自身が空襲のさなかに生まれたことから、劇中の赤ん坊は自分だったかもしれないと語っている。BBCがこの作品を買い上げ、数年後の1976年に放映した。1974年にBBC制作のテレビ映画『ザ・イヴァキュイーズ』で英国映画テレビ芸術アカデミーのテレビ部門賞を獲得し、1976年の『ダウンタウン物語』で劇場用映画の監督デビューを果たした。

1978年の『ミッドナイト・エクスプレス』は高い評価を得て、アカデミー監督賞にノミネートされた。同作はアカデミー賞6部門にノミネートされ、2部門を受賞している。1980年の『フェーム』は興行的に成功し、1985年の『バーディー』はカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受けた。1982年にはピンク・フロイドのアルバムを映画化した『ピンク・フロイド ザ・ウォール』を発表し、1988年の『ミシシッピー・バーニング』でもアカデミー賞にノミネートされた。ほかにも『エンゼル・ハート』『ザ・コミットメンツ』『エビータ』『アンジェラの灰』などを監督し、ミュージカルから実話に基づく劇、スリラーまで幅広い作風を見せた。

映画界では、英ディレクターズ・ギルドの設立に関わり、英フィルム・カウンシルの会長を務め、1990年代後半には英映画協会(BFI)の会長もつとめた。1995年に大英帝国勲章司令官(CBE)、2002年にナイトの爵位を受け、2013年には英国映画テレビ芸術アカデミーの最高の栄誉とされるフェローシップ賞を贈られた。2015年には個人の資料をBFIの国立アーカイブに寄贈している。小説家としても1977年と2003年に長編小説を発表した。妻リサ・モーラン=パーカーとの間に5人の子と7人の孫がいた。

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