HISTORICAL PERSON · 1434年没

ジャン1世 (ブルボン公)

第4代ブルボン公。アルマニャック派に加わりブルゴーニュ派と衝突し、アジャンクールの戦いで捕虜となりロンドンで没した。

生涯
1434年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
—
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジャン1世は、第4代ブルボン公で、クレルモン伯である。1381年に生まれ、1434年2月5日にロンドンで没した。父はブルボン公ルイ2世、母はフォレ女伯アンヌで、その長男にあたる。父の存命中はクレルモン伯を名乗り、1410年から亡くなるまで、ブルボン公とフォレ伯を務めた。

1400年6月24日にパリで、ベリー公ジャン1世の娘で、オーヴェルニュ女公でモンパンシエ女伯のマリーと結婚した。この結婚により、ベリー公の死後、オーヴェルニュ公位とモンパンシエ伯位が、ジャンとマリー夫妻に受け継がれることになった。ただし、2人の男系の子孫が絶えたときは、これらを含むブルボン家の所領をすべて王家に返上するという条件がついていた。2人の間には、シャルル(1401年生まれ、1456年没)、1412年に没した次男、のちにモンパンシエ伯となり、ブルボン公シャルル3世の祖父となるルイ(1405年生まれ、1486年没)の3人の男子が生まれ、ほかに幼くして亡くなった娘たちがいた。婚外の子も何人かあり、1399年生まれのジャンヌは、のちに認知されて、父の死の翌年に結婚している。1413年ごろに生まれたジャンは、ル・ピュイの司教、クリュニー修道院長となった。

1404年にラングドックの総司令官に任じられ、リムーザン地方でイングランド軍を攻撃して、いくつかの要塞を奪った。はじめは、ブルゴーニュ公ジャン無怖公の側についていたが、1407年にオルレアン公ルイが暗殺されると、彼から離れて、アルマニャック派に近づき、無怖公の激しい敵対者となった。1410年に父が亡くなり、ブルボン公位を継ぐと、同じ年に、舅のベリー公、相婿のアルマニャック伯ベルナール7世、オルレアン公シャルルらとともにアルマニャック派に加わった。アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦は、1411年に最も激しくなり、ジャンは1411年のピカルディー攻撃に加わったが、一時クレルモンを失った。1412年の和平のあと、パリ周辺の傭兵集団を一掃したが、同じ年にイングランドとの密約にも加わった。1413年には、混乱に乗じたパリ奪取にも加わった。1414年に戦いが再開したが、イングランドの侵攻で中断された。

1415年のアジャンクールの戦いに加わり、イングランド軍の捕虜となった。身代金は金貨10万エキュとされ、のちに加算されて増えたが、全額が集まることはなく、ジャンは1434年に死ぬまで、ロンドンで虜囚の身にとどまった。所領は妻マリーが管理した。1416年にベリー公が死んで、本来ならオーヴェルニュとモンパンシエを継承するはずだったが、王家がこれを認めず、息子のシャルルが継ぐまでに、9年後の1425年までかかった。紋章の百合の花の数を、三位一体にちなんで3つにまで減らしたことでも知られる。

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