HISTORICAL PERSON · 1908年没

ウィリアム・ランダル・クリーマー

イギリスの政治家・平和活動家。国際調停への貢献により1903年にノーベル平和賞を受賞し、列国議会同盟と国際仲裁連盟を共同設立した。

生涯
1908年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(フェアハム)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ウィリアム・ランダル・クリーマーは、1828年3月18日にイングランド南部の町フェアラムで、労働者の家庭に生まれたイギリスの政治家であり、平和活動家である。しばしば、ミドルネームの「ランダル」の名で知られる。父は、まもなく家族を捨てて去った。母は、二人の姉妹とともに彼を育て、地元の宗教学校で教育を受けさせた。前半生は極度の貧困に彩られていた。12歳ごろまで学校に通い、その後は大工の徒弟となり、無料の講義にも通って知識を補い、腕のいい大工になった。1852年、24歳でロンドンに出て、大工として働くうちに労働組合の活動に関わるようになり、まもなく労働指導者として知られるようになった。1858年には、1日9時間労働を求める運動の委員会に選ばれた。ポーランド人のロシアに対する蜂起や、南北戦争の北部諸州を支援する国際的な運動にも加わり、イギリスを訪れたガリバルディを迎えた。

1864年に労働者の平和協会の創設に加わり、1865年には第一インターナショナルの主事に選ばれて、カール・マルクスと親交を深めた。しかし2年後の1867年に辞職している。辞職の理由については、革命路線に反対したためとも、組織が急進的になりすぎたと感じたためともいわれる。多くの進歩的な運動に熱心に関わり、マルクスにも尊重されたが、労働者主導の革命には賛成しなかった。1868年に初めて下院議員選挙に立候補して落選し、そのときから、戦争に代わる平和的な手段として、国際調停の拡大を訴えていた。1874年にも落選したが、選挙法の改正で選挙権が拡大したこともあり、1885年から1895年まで、ロンドン東部のハガーストン選挙区から選出された。1895年は落選し、1900年に再選されて、1908年に肺炎で死去するまで議員を務めた。

平和運動に関わる決定的なきっかけは、1870年の普仏戦争だった。彼はイギリスの中立を支持し、労働者の平和委員会を作って書記に選ばれた。この団体の目的は、国際調停の委員会を推進することにあった。1876年に最初の妻を、1884年に二番目の妻を亡くしている。1887年には、下院議員の3分の1の支持を得て、イギリスとアメリカの調停条約を働きかけるため、アメリカに渡った。その活動は条約として実らなかったが、人々の意識に変化をもたらした。この活動に強い関心を持ったフランスのフレデリック・パシーの招きで、1888年にフランスを訪れ、これがきっかけで、9か国の議員が集うパリでの会議が開かれ、これが1889年に列国議会同盟となった。クリーマーは副会長とイギリス支部の書記に選ばれた。国際仲裁連盟も共同で設立し、1899年と1907年のハーグ平和会議の地ならしをしたとされる。1897年の米英間の調停条約の受け入れを働きかけたが、アメリカ上院に否決され、発効しなかった。1903年にノーベル平和賞を受賞し、単独の受賞者としては初めてであった。賞金8000ポンドのうち、7000ポンドを国際仲裁連盟の基金に寄付した。1907年にナイト爵に叙せられ、フランスのレジオン・ドヌール勲章やノルウェーの聖オラフ勲章も受けた。1908年7月22日に死去した。

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