HISTORICAL PERSON · 2019年没

ムハンマド・ムルシー

エジプトの学者・政治家。アラブの春の民主化後で最初の大統領に選ばれたが、イスラム主義に基づく統治が反発を招き、2013年のクーデターで解任された。

生涯
2019年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / トラ刑務所)
出生地
エジプト・アラブ共和国(エル=アドワー)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

ムハンマド・ムルシーは、1951年8月20日に生まれ、2019年6月17日に没したエジプトの学者・政治家である。名前の日本語表記にはモルシやムルシなどがあり、一部の中東専門家はムルスィーと表記する。アラブの春による民主化の後、初めてエジプト大統領に選ばれた人物である。

シャルキーヤ県アル=アドワ村の農家に生まれた。1975年にカイロ大学工学部を卒業し、1978年に同大学で工学修士、1982年に南カリフォルニア大学で工学博士の学位を取った。1982年から1985年までカリフォルニア州立大学ノースリッジ校の助教授を務め、その間、エンジニアとしてアメリカ航空宇宙局に勤務し、スペースシャトルの開発業務に助手として加わったこともある。1985年にエジプトへ帰国してザガジグ大学の教授となり、2010年まで務めた。2000年の人民議会選挙に無所属で当選し、2005年までムスリム同胞団議員団長を務めた。2011年の革命後に同胞団を母体として設立された自由と公正党の党首に選ばれた。

大統領選挙には当初、同胞団副団長のハイラト・シャーテルが擁立されたが、2011年3月に服役を終えたばかりで、刑期終了から6年以上が必要という規定のため失格とされた。念のため届け出ていたムルシーが党の候補となり、2012年5月22日と23日の第1回投票で1位(得票率24.78%)となって、決選投票に進んだ。決選投票では世俗派・リベラル・左翼の諸勢力も、対立候補のアフマド・シャフィーク元首相に反対して結束した。6月24日、選挙管理委員会が勝者と正式に認定し、得票数は13,230,131票(得票率51.73%)だった。当選に伴い、ムスリム同胞団と自由と公正党から脱退した。6月30日に宣誓して大統領に就任した。

組閣では、7月にヒシャーム・カンディールを首相に任命し、補佐官や顧問に女性やコプト教徒、サラフィー主義者を含め、諮問評議会の任命枠でも75%を非イスラム主義系とするなど、イスラム主義を弱める姿勢も見せた。一方、各地の知事や省庁には同胞団の関係者を次々と送り込んだため、身内びいきとの反発を招き、技能や経験に乏しい人材のために政府機能が停滞したとも指摘される。8月には軍最高評議会が出した暫定憲法を破棄し、国防大臣のタンターウィーらを解任した。これを軍最高評議会に対するクーデターと表現した報道もあったが、幅広い政治勢力は歓迎した。11月22日に大統領の決定を裁判所が覆せないとする条項を発表すると、エルバラダイは「新たなファラオと化した」と批判し、各地で抗議運動が起き、一部の都市では自由と公正党の事務所が襲撃された。ムルシーは12月8日に、この条項を撤回する憲法令を出した。新憲法案は12月15日と22日の国民投票で63.8%の賛成を得て承認されたが、リベラル派やコプト教徒、野党は反発し、投票率は33%にとどまったとの指摘もある。

外交では、就任後最初の外遊先にサウジアラビアを選び、イスラム圏以外では中国を最初に訪れた。経済では、公約した直接投資が実現せず、燃料不足による停電や物価の上昇が起きたと報じられたが、これに反論する見方もある。反政府運動が高まるなか、国防大臣アブドルファッターフ・アッ=シーシーらのクーデターで解任され、身柄を拘束された。のちに死刑判決を受けたが、2016年11月に最高裁判決で事実上覆り、2017年に禁錮20年の判決が下った。2019年6月17日、法廷での審問後に倒れて死去した。

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