HISTORICAL PERSON · 1984年没

ムハンマド・ナギーブ

エジプトの軍人・政治家。1952年のクーデターで首相となり、翌年の共和政移行で初代大統領に就任した。

生涯
1984年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / カイロ)
出生地
スーダン共和国(ハルツーム)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

ムハンマド・ナギーブは、1901年2月20日に生まれ、1984年8月28日に没したエジプトの軍人・政治家である。1952年のクーデターでエジプト王国第34代首相となり、翌1953年の共和政移行により、初代のエジプト共和国大統領に就任した。姓はナジーブとも書かれるが、エジプト方言の発音に従ってナギーブと称される。

英国とエジプトの共同統治下にあったスーダンのハルツームで、エジプト軍のスーダン駐在員ユーセフ・ナギーブの息子として生まれた。九人きょうだいの最年長で、代々軍人の家系だったが、父は子が軍に入ることを望まなかった。英国人の家庭教師には、植民地支配を批判して、鞭で罰せられることもあった。はじめはナポレオンを模範とし、床で眠ってまねをしたこともあるが、やがてムスタファ・ケマルを敬愛し、続いてサアド・ザグルールを手本とした。1916年に父が死去すると、カイロへ移った。翻訳家を目指して語学に励んだが、政治学や法学に転じ、1917年4月に陸軍士官学校に入ったため、博士号は取らなかった。入隊後も語学を学び、イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語を習得した。ヘブライ語も学び、第一次中東戦争後は、陸軍大学でヘブライ語を教えるよう命じて、軍人たちがイスラエルの通信を傍受できるようにした。

1918年に士官学校を卒業して、スーダンに派遣された。1919年にエジプト革命が起きると、軍紀違反を承知でカイロへ赴き、国会議事堂の階段前でエジプトの国旗を掲げて座り込んだ。軍務のかたわら法学を学び続け、1927年にはエジプト軍の士官として初めて法学士を得て、続いて経済学の課程も修めた。1934年にはアリーシュの沿岸警備隊に移り、シナイ砂漠を横断する密輸業者の摘発にあたった。1940年に国王ファールーク1世に謁見したが、その手に接吻することを拒み、握手を交わした。1942年2月、英国大使が宮殿を英軍に包囲させ、国王に反英政権の解体を迫る事件が起きると、国王の態度に憤慨し、辞表を叩きつけた。第一次中東戦争では指揮官として参戦し、戦場での活躍で国民的な人気を集めた。1949年に少将、1950年に中将となり、参謀総長を務めた。このころ、軍内の秘密組織である自由将校団に加わった。ガマール・アブドゥル=ナーセルらは、団の結束を強めるため、国民に人気の高いナギーブを団長に推した。1952年1月、将校クラブの会長選挙で国王派を破って当選した。

1952年7月23日、自由将校団はエジプト革命を起こし、ファールーク1世を退位に追い込んだ。陸軍総司令官に就任したナギーブは、直ちに革命指導評議会を発足させて議長となり、革命の正当性を訴えた。国王を亡命させるか裁判にかけるかで会議が紛糾すると、ナーセルとともに亡命を支持した。亡命の際、ファールークは「君の使命は難しいものです。エジプトを治めるのは簡単なことではありません」と告げ、ナギーブは後年「私は彼の敗北を喜ぶ気にはなれなかった」と述べている。9月17日に首相に就任し、翌1953年6月18日に共和政へ移行すると、首相を兼ねたまま初代大統領となった。しかし、実権は自由将校団を実質的に率いたナーセルが握り、対立が際立った。1954年2月に首相を解任され、国民の反発で3月に復帰したが、4月に再び辞任し、11月14日には大統領を解任された。その後は郊外の邸宅に軟禁され、1972年に解かれた。1984年に死去し、軍葬に付された。

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