HISTORICAL PERSON · 1682年没

エヴリヤ・チェレビ

オスマン帝国時代の大旅行家。1640年に生地コンスタンティノープルの旅を始め、40年以上各地を旅して10巻の旅行記を著した。17世紀のオスマン帝国の生活様式を知る一級の見聞録で、各地の言語も記録した。

生涯
1682年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / カイロ)
出生地
トルコ共和国(イスタンブール)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

エヴリヤ・チェレビは、オスマン帝国の時代に活躍した大旅行家である。1611年3月25日にコンスタンティノープルで生まれたとされる。本名はデルヴィシュ・メフメト・ズッリーといい、チェレビは「紳士」や「神の人」を意味する敬称である。没年は1682年とも1684年ともされ、死んだのがコンスタンティノープルだったのか、カイロだったのかも分かっていない。

生家はキュタヒヤ出身の裕福な一族で、両親はともにオスマン宮廷に縁があった。父は宮廷に仕える宝石商であり、母は大宰相メレク・アフメト・パシャの親族でアブハジア系であったという。本人は旅行記のなかで、父方の系譜を、最古のテュルク系詩人で初期のスーフィー神秘家とされるアフメト・ヤサヴィーまでさかのぼらせている。宮廷では帝国のウラマーから教育を受けた。カイロの修道場に詳しいことや、自らを「ギュルシェニーのエヴリヤ」と記した落書きが残ることから、ギュルシェニー教団に加わっていたかもしれないと考えられている。敬虔なイスラーム教徒で、狂信を嫌い、コーランを暗唱することができた。皇帝ムラト4世の宮廷では聖職者兼芸人として仕えたが、旅の妨げとなる職は断った。ハルヴェティー教団の著名な修行者ウマル・ギュルシェニーに声楽と器楽を学び、その音楽の才によって宮廷で大いに目をかけられ、楽長アミル・グナをも感心させたという。

旅の記録は、コンスタンティノープルで建物、市場、風習、文化を書きとめることから始まった。1640年にはその範囲が市外への旅の記述にも広がった。以来40年以上にわたって、オスマン帝国の各地と周辺の国々をめぐり、その見聞を全10巻の『旅行記』にまとめた。第1巻はコンスタンティノープルの旅、第2巻はアナトリア、最終巻はカイロの旅行記にあたる。当時の文学の慣習に反して、口語と格調高いトルコ語を混ぜて書いたため、この書は17世紀のオスマン帝国の暮らしを知るうえで、今も親しまれ、利用しやすい文献であり続けている。楽器を扱った章も二つある。ただし虚構と思われる箇所もあると指摘されており、クロアチアの記述には、自身の体験と他人の話に加えて創作された要素も含まれるという。

各地の記録には興味深いものが多い。1640年にはチェルケスを訪ね、女性の美しさや人々のもてなしの良さを述べ、モスクも市場もないことに触れ、その言葉を文字では書き表せず、カササギの叫び声にたとえた。ボスニアのモスタルでは、町の名を「橋の番人」の意と記し、長さ28メートル、高さ20メートルの橋を、天に昇る虹の弧のようだと讃えた。1660年にはコソボへ行き、地域の呼称や住民の言語を書きとめた。アルバニアは三度訪れ、1662年にはティラナ、レジャ、シュコドラなどをめぐっている。1663年のロッテルダム訪問では、先住のアメリカ人に会ったと主張している。1665年から1666年にウィーンを訪れたときは、ドイツ語とペルシア語の単語に似た点があることに気づいた。のちにインド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語の関係を、早くに観察したものといえる。

その功績の最たるものは、当時各地で話されていた言語の記録である。30を超えるトルコ語の方言や各国語の記録を残し、東アナトリアではクルド語を詳しく分析し、コーカサスの諸言語、ペロポネソス半島東部のツァコン語、黒海北部のウビフ語も書きとめた。『旅行記』の最長の英語版は1834年にオーストリアの東洋学者ハンマー=プルクシュタルが出版したが、翻訳には難があった。全巻が外国語に訳されているわけではない。

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