伝記
モーシェ・ベン=マイモーンは、中世のスファラディに属するユダヤ教のラビであり、哲学者、律法学者、医師でもあった人物である。一一三五年三月三十日にイスラーム支配下のコルドバで生まれ、一二〇四年十二月十三日に没した。アラビア語圏ではイブン・マイムーン、ラビの間では頭文字を取ってラムバム、欧米ではラテン語風にマイモニデスの名で知られる。「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と称えられたという。
家は代々ラビを出した名門で、父ヨセフはコルドバのユダヤ教徒共同体の最高判事も務めた学者だった。母はモーシェを産んだ直後に亡くなった。父から数学や天文学の基礎、ユダヤ神学やラビ文学を教わったが、幼いころは学問に身が入らず、厳しい教育に耐えかねて家出したという話も伝わる。同郷のイブン・ルシュドとはこの時期に知り合ったとされる。やがてムワッヒド朝がユダヤ教徒とキリスト教徒を迫害すると、一家はいったんイスラームに偽装改宗し、それでも危ういと見てアルメリア地方へ移り、さらにモロッコのフェズへ逃れた。この放浪の見聞は視野を広げたとされ、旅のあいだにユダヤ暦の論文を書き、『ミシュナー註解』の編集にも着手した。フェズでも強制改宗の危険が迫ったため、一一六五年四月に船でパレスチナへ向かい、アッコンに着いて聖地を巡った。
一一六六年にカイロ南部のフスタートへ移ったが、同じ年に父を失った。ここでイスラーム教徒の友人の助けを得て、偽装改宗の無効を法廷で認めさせたという。父の死後はラビの務めに就いたものの報酬を受け取らず、宝石商をしていた弟ダビデが一家を支えた。ダビデが海難事故で亡くなると生活は苦しくなり、モーシェは医業で家計を支えることにした。『ミシュナー註解』は一一六八年に発表し、一一七三年にはサラディンの妃に仕えた女性と結婚した。アイユーブ朝のカーディー、アル=ファーディルの信頼を得て、一一八五年(一一八七年ごろとも)に宮廷医となり、サラディンとその子アル=アジーズの侍医として王侯貴族を診察した。イングランド王リチャード1世から王室の侍医に招かれたが、断ったと伝えられる。
モーシェは講義よりも著述で思想を伝えることを好み、著作はアラビア語で書かれ、ただちにヘブライ語へ訳された。ユダヤ教の「十三の信仰箇条」を残したことでも知られる。著作の中心は、ユダヤ法を体系的にまとめた法典『ミシュネー・トーラー』と、哲学書『迷える者たちの導き』である。前者は原典への引照を付けず、タルムード研究を軽んじる印象を与えたため、プロヴァンスのラビたちから批判を受けたが、のちの法典『シュルハン・アルーフ』などにも大きな影響を与えた。後者は一一九〇年ごろに書かれ、アリストテレス哲学とユダヤ教神学の調和を探ったもので、信仰と理性の関係を論じた。一二〇四年にヘブライ語へ訳され、のちラテン語訳を通じてアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスらキリスト教神学者からも高く評価された。一方、内容が合理的すぎるとして批判され、保守的なユダヤ人の一派が書物を焼いたともいう。
一二〇四年にフスタートで没し、遺体はガリラヤ湖畔のティベリアに葬られた。遺体はモーセの辿った道を運ばれたとされ、葬列がベドウィンに襲われたが、彼らも列に加わったという伝承がある。その墓は今も巡礼者が絶えないと伝えられる。一九五三年にはイスラエルで国際科学史会議が開かれた記念に切手が発行され、肖像は同国の紙幣にも採用された。
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